ミュージック・ペンクラブ・ジャパン
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藤岡誠氏を悼む

「武闘派の天晴れな生きざま」

大橋伸太郎

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 さる4月25日にオーディオ評論家で長く当会会員の藤岡誠氏が逝去した。享年82歳(行年81歳)だった。

 オーディオブーム真っ只中の1970年代初めに執筆を開始、オーディオ専門誌ばかりでなくFM誌、クラシック、ポピュラー音楽誌をまたにかけて活躍する飛ぶ鳥を落す勢いのオーディオ評論界のプリンスだった。

 こんなエピソードがある。藤岡さんは筆者の長く勤務した雑誌社にも寄稿していたが、その会社の創業者で社長のI氏とある日某メーカーのエレベーターでぐうぜん一緒になった。I氏は藤岡さんよりふたまわり以上目上である。「やあ、藤岡君、元気かね?」とI 氏が声をかけると藤岡さんは「社長。わたしはあなたを社長と呼んでいます。あなたも私を君づけでなく、『藤岡先生』と呼んでください。」と決然といいはなった。I社長は気の短いことで知られたひとだった。「なにっ!」と色をなして藤岡さんをにらんだが、藤岡さんは一歩もひかない。エレベーターに乗り合わせたメーカーのひとたちはさぞきまりが悪かっただろう。いや、案外下を向いて笑いをこらえていたかもしれない。

 たいていのオーディオ評論家はメーカーの技術職やハイアマチュア、販売業界の長い経験を経て筆者に転ずるが藤岡さんは二十代で評論家になった。藤岡誠青年は人生をオーディオ評論という新手の職業に賭けたのである。オーディオブームでにわかに脚光を浴びたせいでオーディオ評論にはどこか面妖な印象がつきまとっていた。藤岡さんはクラシック音楽の権威に負けない世間の尊敬と信頼を集める職業にしなくてはいけないと思い、日々の執筆や講演に精勤した。その熱情が「先生と呼んでください。」をいわしめたのであろう。

 啖呵をきるだけあって、自分の仕事にめっぽう厳しかった。およそ忖度と無縁のひとだった。仕事で筋をとおした。だめなものはだめとずばずばいう。高校生の筆者はフォノカートリッジを探していて、某誌で藤岡さんの評論と出会った。アメリカの某社の製品について「最近多い低音が締まらずダラダラ出るスピーカーにもってこいのカートリッジである。毒をもって毒を制するというワケ。」と評してあって思わずこれだ、と思った。販売店で聴いてみるとDJユースらしくダンピングの効いた低音である。そうして、筆者が初めて購入したカートリッジになった。

 日本のトップメーカーのFMチューナーのプレーンな前面デザインを筆者は好きだったが、藤岡さんはのっぺりして工夫がない。見るたびにうんざりさせられる、どうにかならないかと容赦ないのである。それ以前も、いや現在ではなおさらのこと、こんな憎まれ口をきく評論家はいない。一方、惚れ込んだ製品について語るときの熱情ははんぱでなかった。イタリアのスピーカー、ソナス・ファベールを日本に知らしめ、一躍人気ブランドにしたのは藤岡さんである。

 生粋の江戸っ子で東京市長(都知事となる前)を先祖にもつとうかがっていた。からだにぴったりあった仕立てのいい背広を颯爽と着こなし、声が大きく短気だが上機嫌だとケラケラ笑う侠気を感じさせるひとで「代々木上原の大御所」と畏れられていたが、そんな武闘派もいつしか初老となりある時期から急に柔らかくなった。お孫さんの誕生である。

 お孫さんは乗り物が好きで、湘南モノレールに乗りたいとお祖父ちゃんにせがんだらしい。ほとんどのモノレールは高架上の線路にまたがって走る跨坐式だが、大船と片瀬江ノ島間を走行する湘南モノレールは世界でも珍しい、線路から吊り下がって走行するサフェージュ式(懸垂式の一つ)である。だから日本中から鉄道ファンが乗りにくる。藤岡さんから「オマエの住んでるほうの湘南モノレールに乗りたいが、どういけばいいんだ?」と訊ねられ、筆者はJR大船駅からモノレールに乗って、終点の片瀬江ノ島で江ノ電に乗りかえ、藤沢駅から小田急でお帰りになるといいのでは?と教えた。余計なことだが、湘南モノレールが自分が中学生のころに開通したこと、操業当初は車両が直流方式だったのでガクンとつんのめるような走り出しだったがその後交流方式に変わり、するするとなめらかに動き出すようになったこと、湘南モノレールがサフェージュ式を採用した背景に、同方式の日本における技術特許の多くを三菱重工業、ダイヤトーンの三菱電機が持っていて、大船が三菱グループの城下町だからだと話すと、乗り物にさして興味のなかった藤岡さんは急に身を乗り出した。

 後日、雑誌社で私を呼び止め、「大仏に孫と行った帰りに、オマエの家の近くの釜飯屋で飯を食って、その下のジェラート屋でアイスクリームを食ったがうまかったよ。」とうれしそうに相好をくずすではないか。あの肩で風を切って歩いていたひとが、孫とジェラートをほおばっている姿が信じられなかった。硬骨漢がいつのまにか好々爺に変わっていた。

 8年ほど前に藤岡さんは病を得て一時休業した。藤岡さんが審査委員長をつとめていたオーディオアワードのメンバーの某有力地方販売店経営者氏も時を同じくして病に倒れこちらは帰らぬ人になったが、藤岡さんは先端医療のかいもあり、みごとに審査委員長に復帰。生命力の強さにみながうなった。それから約6年。ふたたび病を得て、奥様の気遣いで評論家を引退。こんどは残念なことに二年後に旅立った。

 二十代で脚光を浴び、以来、オーディオ評論家トップランナーとして先頭を走り続けた藤岡誠さん。その芯にはオーディオへの愛とオーディオ評論を一流の仕事に育て上げるのだという不変の志があったと思う。武闘派の骨っぽいいきざまをわたしたちは心に焼きつけておかなければならない。