追悼 坂本龍一

「ミュジシアン・コンプレ(完全なる音楽家)」
池田卓夫(クラシック)
1990年10月、東西ドイツ統一寸前の旧西ドイツ・フランクフルトで開かれたブックフェアのテーマ国は日本だった。見本市会場近くの植物園(パルメンガルテン)温室の記念イベントには、坂本龍一と「オキナワ・ガールズ」(ネーネーズの前身?)が出演した。当時の私は音楽「も」書く経済記者だったから、坂本については「イエロー・マジック・オーケストラ」のメンバー、映画「戦場のメリークリスマス」の出演者にして作曲家といった程度の認識しかなかった。ところがパルメンガルテンの緑の間に溢れたのは琉球音楽であり、坂本はそこに、洗練されたハーモニーを巧みに融合させていく。
坂本が強烈に意識した「現代音楽」の作曲家に、武満徹と高橋悠治がいた。武満は文化人類学者の川田順造との対談本「音・ことば・人間」(1980年、岩波書店)を出したあたりから、エスノロジー(文化人類学)への関心を鮮明にした。高橋は1978年に「水牛楽団」を組織、タイを皮切りにアジアやラテンアメリカの抵抗歌を各地の市民集会で紹介する活動を続けた。「世界的作曲家」と呼ばれた人々が音のルーツを見つめ、時に鋭い社会的メッセージを発しながら、エスニックな領域、ワールドミュージックの平原に踏み込んでいくベクトルを坂本も結果として、踏襲した気がする。
子どもの頃からピアノの腕を上げ、音楽家の将来を期待されていた時点ですら「右手と左手が〝平等〟」という理由でJ・S・バッハを尊敬し、インドネシアのガムラン音楽や日本の浮世絵にいち早く目を向けたドビュッシーに傾倒していた。東京藝術大学の学生時代、坂本はクラシック音楽の権威主義に嫌気がさし、民族音楽研究のパイオニア、小泉文夫教授の講義に入り浸り、エスニックな音楽の沃野への視線を広げて行った。
2023年4月23日付「朝日新聞」のコラム「日曜に想う」で、音楽担当の吉田純子編集委員が坂本を論じた。後年の坂本の社会活動への情熱に戸惑った人々に対し、吉田さんは「あらゆる境界線を越え、万人の心とつながる無二の術を持つ人が、苦しみのどん底にいる人たちのことを思わずにいられなくなるのはごく自然なことなのではないだろうか」と問いかけた。
NHKのeテレが2010ー2014年、何期かに分けて制作した「スコラ 坂本龍一 音楽の学校」はバッハから日本の現代音楽、ジャズ、ロック、映画音楽、世界の民族音楽などを網羅した素晴らしい番組で、「教授」の面目躍如。坂本は、フランス語の「ミュジシアン・コンプレ(完全なる音楽家)」を世界のタテヨコに広げた稀有の存在だった。
「真の越境を果たした音楽家」
櫻井隆章(ポピュラー)
音楽家、坂本龍一氏が2023年3月28日、亡くなった。享年71歳。永年、癌との闘病生活を続けた末の他界であった。謹んでご冥福をお祈りします。
坂本龍一氏の追悼記事は、おしなべてYMOと「戦場のメリークリスマス」、そして「ラストエンペラー」に付いて書かれたものが目立った。が、決してそれだけでは無いことも知って戴きたい。
時は1970年代中盤。折からのフュージョン・ジャズのブームが日本でも吹き荒れ出し、そのメッカとなっていた今は無き“ロッピ”こと六本木Pit Innでの大活躍は今や伝説だ。渡邊香津美率いるKYLYNなどでの活動は、その一例である。なのだが、その前に坂本氏の実質的最初のプロ仕事は、まだ東京藝大大学院在籍中の76年に、「私は泣いています」をヒットさせた後の、りりィのバック・バンドである「バイバイセッションバンド」に参加したこと。このバンドには数多くのミュージシャンが去来したが、生前の坂本氏の言葉に拠れば「あの時代、東京在住のミュージシャンの優秀なのは、バイバイセッションバンドと、サディスティック・ミカ・バンドにいた」そうである。この後者のバンドのドラマーが、故・高橋幸宏であった。また、この、りりィのマネージャーが坂本氏を紹介したのが細野晴臣のマネージャーなのである。ここに、後のYMOの原点があるようだ。そして、同じく生前の坂本氏の言葉に、「僕がバンドのメンバーとなったのは、バイバイセッションバンドとYMOの二つだけだよ」、とのことだそうである。
そして、そのフュージョン・ジャズ・シーンに於いて、坂本氏は抜群の才能を発揮し出すのだ。前述のKYLYNなどは78年のYMO結成後に並行して活動したものだが、ほぼ同じメンバーでの“カクトウギセッション”などでも活躍を続けた。KYLYNでも一緒だった矢野顕子はYMOのサポート・メンバーとなり、後に結婚までしたし、YMOが大評判となったアメリカ・ツアーに同行した渡邊香津美との縁も、この辺りから生まれている。
余談を一つ。そのYMOのアメリカ・ツアーが人気となったのは、YMO自体のテクノ・サウンドが注目を集めたのでは無く、実は渡邊香津美の見事なギター・プレイが大きく観客にアピールした為、だったのだそうだ。なのだが、そのライヴ盤を作る際に、当時の渡邊香津美の所属レーベルが、違うレコード会社から出るYMOのライヴ盤に渡邊の演奏を残すことに許可を出さず、止む無く他のギタリストに穴埋めをさせたのだとか。甚だ残念な話である。
ともあれ、坂本龍一氏の作った音楽は、永遠に我々の元に残る。そして、恐らくは人類が続く限り、坂本龍一氏の音楽は、聴かれ続けるであろう。本当に、早過ぎる死であった。改めて、Rest In Peace……