「マイルス・デイヴィス生誕100年 私の見た、聴いたマイルス」
2026年は、モダンジャズの巨人・マイルス・デイヴィスの生誕100年にあたります。ハードバップ、モードジャズ、エレクトリックジャズ、フュージョン……ジャズの孤独なトップランナーにして「トランペットで闘う男」であり続けたマイルス。ミュージック・ペンクラブ・ジャパンのポピュラー、クラシック、オーディオ三分野の会員が自身のマイルス体験を語ります。
「ファンの夢〜ジャズクラブで聴くマイルス、が実現した日」
小川隆夫(ポピュラー)
マイルス・デイヴィスは11回の来日公演を行なっている(最後の公演は、1990年12月21日「東京ドーム」で開催されたジョン・レノンのトリビュート・コンサート──GREENING OF THE WORLD──出演のためのもの)。筆者がアメリカに留学していた81年から83年にかけての2回の日本公演は観ていないが、代わりにニューヨークを中心に7回のコンサートに接することができた。それらも含めて、いずれもがなんらかの感慨を覚えるものだった。中では、1990年、東京・目黒「ブルース・アレイ・ジャパン」で聴けたライヴが稀有な体験として心に残っている。その模様を、いまはなき『スイングジャーナル』誌(1990年11月号)に寄稿した文章を紹介することで、この項の原稿としよう。
ついにマイルス・デイヴィスをジャズ・クラブで聴くことができた──ファンの夢が実現した瞬間である。東京・目黒にオープンした「ブルース・アレイ・ジャパン」でのことだ。テーブル席が40,000円(食事つき)、立ち見でも15,000円は破格だが、あのマイルスが130席ほどのクラブで聴けることを考えれば納得できる。
マイルスが「ブルース・アレイ・ジャパン」に出演したのはオープニング・ウィークの4日間(9月17日、18日、20日、21日)。ぼくはこの間のマイルスに圧倒されっぱなしだった。音楽やサウンドがどうとかを超越し、彼はスーパースターの存在感を遺憾なく発揮した。
場内が暗転するや、プリペアードされたシンセサイザーの演奏が始まり、客席後方からマイルスひとりがステージに進む。スタンディングオヴェーションこそないものの、全員の気持ちがマイルスの姿と音に向かう。それほど強いオーラを発散させていた。トランペットの調子を計るようにちょっと音を出しただけで、場内は興奮の坩堝に叩き込まれた。
演奏されたのはほとんどがここ1年半ぐらいのレパートリーだった。『ユア・アンダー・アレスト』(コロムビア)から『アマンドラ』(ワーナー・ブラザース)までの曲が大半を占める。しかしコンサート・ホールと違い、バラードではいかにもバラードらしいリリカルなプレイが肌に伝わってきた。そこに、なんとも表現しがたい感動を覚えた。
マイルスの息遣いや、ときおり発する「イェー」とか「オー」といった感嘆詞まで聞こえる狭い空間──その中で聴く「ヒューマン・ネイチャー」や「TUTU」は、「卵の殻の上を歩くように繊細」と形容された通りのものだった。
サウンドがエレクトリックになろうが、リズムがファンクになろうが、昔ながらの音楽性をマイルスは持ち続けてきた。そのことを、リアリティ溢れるサイズのステージで体験することができた。それが「ブルース・アレイ・ジャパン」の4日間である。最終日に聴けた新曲(バラード)の美しさ──そこに、現在の境地が集約されていた。少年のように純粋な気持ちでマイルスが音楽と対峙している。そのことを伝える演奏は、いまも耳にこびりついて離れない。
「マイルス・デイヴィス最後の野外ステージ〜マエストロのように」
池田卓夫(クラシック)
マイルス・デイヴィスのライヴを聴いたのは、たった一度。1988年7月31日、東京・稲城市の「よみうりランドEAST」で行われた「ファー・イースト・ジャズ・フェスティバル」だった。1991年に亡くなったマイルスにとって、最後(1990)から2番目の来日、野外ステージとしてはこれが最後だった。
1986年に長く契約してきたコロムビア(CBS=現ソニーミュージック)からワーナーへ移籍。晩年は自分より遥かに若いミュージシャンたちとフュージョン風のバンドを組んだり、ロックやポップとコラボレーションしたり、最後まで新たな展開を模索した。
1988年の野外フェスティバルのメンバーもケニー・ギャレット(サックス)、フォーリー(ギター)、ケイ・アカギ(キーボード)、アダム・ホルツマン(キーボード)、ベニー・リートヴェルト(ベース)、リッキー・ウェルマン(ドラム)、マリリン・マズール(パーカッション) と、当時の若手中心に組まれていた。
私はジャズの熱心な聴き手ではない。だが、マイルス・デイヴィスには何故か関心を抱き、『スケッチ・オブ・スペイン』(1959)、『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』(1964)などCBS時代の名盤がCD化されるとすぐに買い、時々思い出したように聴いていた。様々な音楽のエキスをたっぷり吸っているとはいえ、そこで聴けるのは紛れもないジャズの王道であり、聴き手を一気にとりことする、卓越したトランペット演奏だ。
いま聴き直すと彼の音は金属的ではなく、肉声がたまたま金管を介し、絶えず語りかけてくる「Parlando(パルランド)」の妙を強く感じる。最近、クラシックの音楽コンクールでは審査しながら講評を用紙に記して参加者に渡す場合が多く、私がよく書くのは「もっと語りかけるように演奏してください」。21世紀の若いコンテスタントたちは、自分のピアノやヴァイオリン、声楽の先生だけでなく、マイルスのトランペットや美空ひばりの歌を聴いた方が、よりパルランドの感覚が身につくのではないかと思える。
あの日のよみうりランドEAST、マイルスは往年の快音を延々と奏でたわけではなく、若いミュージシャンそれぞれの側に寄ってはパッとひと吹き、音の動機を与え、彼らの演奏を鼓舞するようにステージ上を動き回った。ミュージシャンたちはマイルスに何かを〝注入〟された途端、別の音と精彩を放っていく。それは、老境に達した巨匠指揮者(マエストロ)がごく小さな振り、あるいは指揮台に立っただけでオーケストラの響きを一変させるマジックに酷似していた。マイルスは間違いなく、マエストロだった。
「マイルスは私にとって時代の空気を蘇らせてくれる稀有な存在」
三塚博(ポピュラー)
1960年代後半、新宿歌舞伎町の喫茶店王城の真向かいにあったジャズ喫茶ヴィレッジゲートで半分分かったようなふりをしてジャズを聴いていた。コーヒー一杯が百円前後ぐらいだったと記憶しているが、学食でカレーが50円で食べられた時代だから貧乏学生にとっては結構な値段だった。紫煙が漂い、独特の音圧を感じさせる空間。決して音数が多いわけでもない。針音の向こうからは、ときに”間”そのものまで聴こえてくるようだった。そのプレイからふっと漂ってくるマイルスの空気感が、ジャズ入門者だった私の耳をがっちり掴んだ。
マイルスを目の当たりにしたのはそれから数年後、1973年の来日コンサート、新宿厚生年金大ホールでだった。当時私はフィリップスを抱えるレコード会社の駆け出し洋楽マンで『死刑台のエレベーター』や『ルグラン・ジャズ』の編成や宣伝に携わることがマイルスとの仕事上の接点といえば接点だった。ロック化・エレクトリック化していくマイルス作品が賛否両論巻き起こしていく様子を横目で見ながら発売元のレコード会社を少し羨ましく眺めていた。
その日のステージはまさに音の洪水のようにワウワウやエコー・マシンなどエフェクターを駆使した演奏が容赦なく押し寄せてきた。もちろん『ビッチェズ・ブリュー』などのアルバムは聴いていたのである程度の想像はしていたが、ジャズ喫茶で育った耳には最初は正直馴染まなかった。「聴衆なんか関係ない。高水準の音楽を作り出したいだけだ」そんなメッセージを浴びせられているように感じたが、いつの間にかマイルスが創造する音の世界に引きずり込まれていった。
ちょうど同じ時期にアビー・リンカーンが来日していた。原宿にあるビクター・スタジオでレコーディングが行われフィリップス・レーベルから発売することが決まっていた。その録音現場に現れたのがマイルス・デイヴィスだった。アビーがマイルスにアドヴァイスを求めたことがきっかけだったそうだ。現場に立ち会った故 伊藤八十八さんが翌朝オフィスで「三塚、昨日スタジオにマイルスが来たんだよ」と教えてくれたのだ。アビーのためにピアノを弾きながら歌い方を助言していたという。その様子を聞いてステージとは全く異なる印象のマイルスになにかホッとしたような不思議な気分が起きたことを覚えている。
当時スイングジャーナル誌の編集長だった故 児山紀芳さんと何度かご一緒する機会に恵まれた。ある時マイルスに話が及び、1973年のステージ衣装についての話をしてみたことがある。大きなサングラスにブーツ、極彩色の衣装を身につけこれまでのジャズ演奏家の比較的シンプルな装いとは違い、メンバーの衣装を含めて違和感を感じていたからである。マイルスが人一倍衣装に気を遣うことから始まり、話はジャズとファッションの関わりにまで及んだ。
それから数年後、レコード会社の取締役として迎えられ、偶然私の上司となって5年ほど公私共にお世話になった。退任後最初の仕事がマイルス取材ではなかったかと思う。それは「マイルス・デイヴィス/誰も知らなかった帝王の素顔」(講談社刊)となって結実した。帰国後、マイルスと一緒にプールで泳いだこと、リハビリの現場にまでカメラを入れたことなど児山さんは楽しげに語ってくれた。
マイルス・デイヴィスという人は何故こうも人を惹きつけるのだろう。スクラップ・アンド・ビルドを繰り返しつねに創造の中にいる人、新しい才能を見つけ出す稀有の力をもった音楽家、そして何より、新しい世代にも受け入れられ、決して古びることのない作品群。あのヴィレッジゲートで初めて耳にした、針音の向こうから立ち上ってきたマイルスの空気はいまも私の耳から消えない。生誕百年を迎えたいま、あらためてその創造力と勇気に深い敬意を捧げたい。
「マーカス・ミラーへの信頼~1981年復帰後のマイルス・デイヴィス」
小原由夫(オーディオ)
酒に女にドラッグに、果てはスーパーカーでの交通事故などから、帝王マイルス・デイヴィスは1975年頃から演奏活動ができなくなっていた。そこへ突如『The Man With The Horn』が降臨。6年の沈黙から発表された復帰作は、どことなく力なく聴こえるミュートトランペットや、ヘビーメタルばりのマイク・スターンのディストーションギターも相まって、評価は千差万別(個人的には、トラック1「Fat Time」のハードボイルドなメロディーラインなんか好きなんだけどなぁ)。
一方で、同作に参加した当時まだ売出し中のベースのマーカス・ミラーは、コロムビア在籍時代のプロデューサー/テオ・マセロのようにマイルスの重要な参謀役を後年務めることになるのだが、その片鱗がここでは垣間見れる。
1981年復帰後のマイルスのアルバムで、演奏・音質・参加メンバーの3本揃った最高傑作が、ワーナーブラザーズ移籍後の『TUTU』であると私は信じて疑わない。ここでプロデュースを担っているのが(巨匠トミー・リピューマと共同で)、何を隠そうマーカスなのだ。
アルバム『You're Under Arrest』(1983)にて最新ポップスへの邂逅を果たしたマイルスを、ポップスに魂を売った! と揶揄する向きもあるが、’50年代’60年代だって当時の流行歌「枯葉」や「いつか王子様が」を採り上げていたではないか。それと何が違うのだと私はいいたいのだが、そうした時代に則したメロディーとビートへのアプローチの集大成こそ、アルバム『TUTU』(1986)に他ならない。タイトル曲のトランペットのなんとスリリングでメロディアスなことよ。マーカスが繰り出すヘヴィーなビートに乗って、実に伸びやかに歌っているではないか。
石岡瑛子のデザインによるマイルスのアップのアルバムアートワークも、その目付きは自信に満ち溢れているとはいえまいか! 俺の音を聴け!と言わんばかりだ。なおかつ『TUTU』は、リマスター盤や重量盤LPで何度となく再発が繰り返された高音質盤でもある。
その『TUTU』と双璧を成すのが、やはりマーカスがプロデュースで参画した1988年のアルバム『Amandra』だ。トラック4「Hannibal」の虎視眈眈と獲物を狙うような鋭いテーマに興奮させられる。旧友アル・フォスター(ドラムス)とマイルス、マーカスの3人で繰り広げるトラック8「Mr.Pastorius」のオープントランペットの歌心にもシビれずにはいられない。本盤もまた『TUTU』に負けず劣らずの高音質盤で、トランペットの音像が屹立している。
