ミュージック・ペンクラブ・ジャパン
ミュージック・ペンクラブ・ジャパン

クロスレビュー

最新号

「ポピュラー、クラシック、オーディオ三分野で語る、
美空ひばり没後三十年。」

美空ひばり没後30年によせて~二枚の私的永久保存盤~
三塚 博(ポピュラー)

 「リンゴの唄」は戦後最初のヒット曲だ。"東京"といっても田んぼと畑と雑木林ばかりの郊外の町の50世帯ほどが肩を寄せあう集落で私は生まれ育った。終戦から10年ほどたった小学校低学年当時のころだったが、季節になるとオート三輪の荷台にリンゴをたくさん積んで売りに来る行商人のおじさんがいた。車載の拡声器からは轟くような音量で並木路子のリンゴの唄が流れていた。流行歌というものを最初に意識したきっかけはこのことによってで、子供心にも学校唱歌とは異なって、わくわく感があった。

小学校高学年になって、同じクラスのこまっしゃくれた“ガキ”と友達になった。彼が得意げに話す大人っぽい話の中には流行歌手<ミソラヒバリ>のこともあった。当時自宅にはテレビもなく、近所に映画館があるわけでもなく、芸能のことなど無関心だった田舎の小学生だった私は、このころすでに押しも押されぬ大スターになっていた美空ひばりという名を、やっと耳にするようになった。のちになって、そのガキ友達の話は年齢の離れた“ねえさん”の受け売りだったことが分かった。どうやらねえさんは熱狂的なひばりファンだったようだ。

昭和30年代後半から40年代というと、ちょっとした町の商店街には一軒や二軒のレコード店があった。店番も一人しかいないような小規模な、いわゆるパパ・ママ・ストアも多かった。売れ筋の商品である演歌・歌謡曲の“えさばこ”が店内の大半を占めていて、とりわけ美空ひばりの仕切り板はまずどの店にもあった。正面ドアには彼女のポスターが張り出されているから、遠目からでも一見すればそこがレコード屋さんであることが分かった。テレビ・ラジオは言うまでもなく雑誌、新聞、映画ポスターやチラシなど、街を歩けば様々な媒体を通して大スターを身近に触れることができた。歌舞伎町を歩けば新宿コマ劇場の正面入口や右壁面にかかる「美空ひばり公演」の大きな看板が目に飛び込んできた。騒乱が起ころうが、ヒッピーもどきが徘徊しようが、危険な歓楽街といわれようが堂々とした看板の存在感は半端ではないと誰もが思ったことだろう。

私は大学卒業後短期間だったが日本コロムビアに籍を置いた。社員研修期間があって正式な辞令を受ける前に営業所に配属され、ピッカーを経験した。ピッカーとは店から注文が入ると受注伝票を見ながら倉庫の棚からLP盤やシングル盤を一枚一枚抜き出してきて梱包して出荷する作業員のことである。売れ筋のレコードがなんであるか肌で感じることができる。まったく注文のこないレコードもあれば、美空ひばりの作品のように毎日コンスタントに出荷されるものもある。時にはLP盤の詰まった段ボール箱ごと注文があると、運ぶのに一苦労、大スターの重みを身体で知ったのはこの時で、今思えば良い経験だった。

写真
美空ひばり/ジャズ&スタンダード
私的永久保存盤と勝手に名付けて大事にしている作品が2枚ある。「美空ひばり/ジャズ&スタンダード」と「ナット・キング・コールをしのんで/ひばりジャズを歌う」(添付画像)である。前者は昭和36年に発表されたアルバムで原信夫とシャープス&フラッツ、それに30人編成のストリングスがバックを務めている。日本都市センターホールを二日間借り切って録音された。

いま手元にあるCDは「虹の彼方に」「バラ色の人生」「A列車で行こう」などジャズやスタンダードのナンバー16作品を収録している。「恋人よ我に帰れ」のように全コーラス英語で歌われた曲、「虹の彼方に」のように日本語詞で歌われたナンバー、「A列車で行こう」のように1コーラス目が日本語詞、2コーラス目が英語詞とミックスした作品がそれぞれ丁寧に印象深く収録されている。当会の会員でもあったジャズ評論家の油井正一はこれらの作品を当時「ひばり節の一変形」と評した。原曲の持つスインギーな味わいが日本語詞で歌われても決して損なわれない。「ひばり節」が隠し味となって素材のうまみを、正しい発音の日本語で大衆に分かりやすく味わわせてくれたのである。日本語詞を提供した水島哲をはじめとする作詞家たちの努力も見逃すことはできない。

写真
ナット・キング・コールをしのんで/
ひばりジャズを歌う
もう一枚が「ナット・キング・コールをしのんで/ひばりジャズを歌う」である。「スターダスト」「ラヴ」「魅惑のワルツ」などナット・キング・コールの代表的な名唱曲をとりあげてアルバムにまとめた昭和40年の作品である。ルポライターの竹中労は「ひばりのハートは、明るく悲しいコールのフィーリングに溶けこみ、何の抵抗もなく、私たちを黒人ジャズの世界へ誘うのである」と評している。また日本語で歌っている曲については「見事にコールの歌の魂を、私たちの国の言葉に移しかえている」とも書いている。歌謡界の女王があたたかな心をもってキングに尊敬の念を表しているかのようにも聴こえる。初来日であった昭和36年のナット・キング・コールの舞台を熱心に彼女は見入っていたという。この公演のバックを務めたのはシャープス&フラッツ。そして4年後の本作品もまた原信夫とシャープス&フラッツが大きな役割を果たしている。<美空ひばりとジャズ>を語るとき原信夫(2008年度MPCJ音楽賞特別賞)の存在が大きいことはよく知られているが、そのことは「ひばりとジャズ、そしてシャープ、原信夫が見つめた美空ひばり」(intoxicate vol104/文長門竜也)に詳しい。

冒頭に述べた「リンゴの唄」を、戦後間もなく人前で歌った小学生の彼女はあまりに大人びすぎていると酷評された。自らの人生を重ね合わせた「川の流れのように」(昭和63年)の絶唱、そして翌年(平成元年)の逝去に至るまで、決して順風満帆ではなかった美空ひばりの音楽人生、生き様は戦後の昭和そのものだった。常に大衆に目を向け歌謡曲を歌い続けた美空ひばりにとって昭和のジャズとはどのようなものだったのだろうか。サッチモやべラフォンテ、ナット・キング・コールらをどんなふうに聴いたのだろうか。平成の時代が終わり、令和の時代にはいった。戦後の昭和は駆け足で次々と姿を消している。美空ひばり公演の看板が印象的だったコマ劇場は高層ビルとなりホテルとシネコンとレストランが同居している。広場を挟んでミラノ座のあったビルも取り壊され、跡地には高層ビルの建設がすすんでいる様子だ。不滅のアーティストの名唱をかみしめながら、もう一度昭和を振り返ってみる。今がそのような時期に思えてならない。

オペラ歌手の卵に必見の教材「ひばりの《トスカ》」レジェンド
池田卓夫(クラシック) 音楽ジャーナリスト@いけたく本舗

 まず、BS朝日の公式サイトから引用する。

→テレビ朝日「題名のない音楽会」は、歴史を誇るクラシックの 番組で今も放送中である。昭和61年(1986年)、1000回放送を記念して、49歳のひばりに出演依頼が来た。オーケストラをバッ クにひばりの世界を歌うのである。これまでのヒット曲に小唄、端 唄、都々逸、さらに提案されたのは未経験のオペラ。ひばりはこれ を快諾し、プッチーニの歌劇「トスカ」のアリア「歌に生き、恋に 生き」を歌った。圧倒的な歌唱力。司会の作曲家・黛敏郎は驚きをもって絶賛。後日談もある。この映像を“宝物”として保存していた のがNHK交響楽団の指揮者・岩城宏之だ。岩城は自らの著書に 「音楽史上唯一の『天才』はモーツァルトだけだというのが常識で ある。しかし、ぼくはこの言葉をためらいなく美空ひばりさんにも 使いたい」と記した。

最近は動画サイトで容易に観られるようになった「ひばりの《トスカ》」。実はかなり前から、声楽を学ぶ学生や新進オペラ歌手の間 では「お宝映像」とされ、歌唱力研さんの〝バイブル(聖典)〟の 扱いを受けてきた。

トスカはサルドゥの戯曲に基づき、プッチーニ が創作したオペラ「トスカ」(1900年世界初演)の題名役ヒロイ ン。孤児院からオペラのプリマドンナまで上り詰めるが、恋人の画 家カヴァラドッシの銃殺刑に巻き込まれるなか、好色な警視総監スカルピアを殺害後、自らもサンタンジェロ城から身を投げて死ぬ。

「歌に生き、恋に生き」は「神様、どうして私に苦しみをお与えになるのですか?」と歌う「愛と絶叫のアリアであり、ひばりさんに最もふさわしい」(黛敏郎)という理由で、公開収録に至った。秋山和慶が指揮するフルオーケストラとともに、「何故この世に苦しみ悩み、報いを受けるのでしょう?」と日本語で絶唱するひばりは、確かに素晴らしい。全身を振り絞るように濃い情感を溢れ出させつつも音程は正確、声色は多彩でトスカの哀しみを描き尽くす。

NHK総合テレビが2019年9月29日に放映した「AIでよみがえる美空ひばり」で人工知能(AI)がディーヴァ(歌の女神)の声を解析 すると、「高次倍音」がひばりの歌に独特の輝き、揺らぎを与え、 他に類例のない歌唱芸術に高めていた実態が明らかにされた。私自身の審査経験に照らしても、最近の声楽コンクール受験者は生まれたときからデジタル録音、圧縮音源に囲まれて育ったためか、倍音の感覚に乏しく、ニュアンス変化の段階も狭まっている。高次倍音 まで駆使し、極彩色の味わいで人間の本質に迫ったひばりの天才的 テクニックと音楽性はクラシックの世界にあっても、永遠に輝く。

歌手の成熟というものの、最も偉大な実例゙
大橋伸太郎(オーディオ)

 40年前の大学生の頃、帝国劇場で美空ひばりの歌を聴いた。ショーは二部構成で、前半第一部はひばりファミリー総出演の人情物のお芝居。ひばりはきっぷのいい江戸下町の主人公を、男装して演じた。後半第二部が美空ひばりヒットパレード。バンドを従えて「リンゴ追分」から「柔」「真っ赤な太陽」までキラ星の如きヒット曲を、お客さんにフレンドリーに語りかけながら、緩急自在、天衣無縫の歌い口で歌い継いでいく。

こんなにお客様に愛されるエンターテイナーが日本にいた…。当時の私はジャズやフュージョンを聴くことが多かったが、美空ひばりのお客さんをとことん楽しませることに徹したプロフェッショナリズムに打たれて帰ったことを今も覚えている。

美空ひばりが亡くなって三十年。テレビでは追悼の歌謡特番がしばしば放送されるが、後に登場した若い世代の演歌歌手がひばりの名曲をカバーするそれらを見てしばしば違和感を感じる。

美空ひばりは昭和を代表し戦後を担ったスケールの大きな歌手、女優、エンターテイナーであり、イコール演歌ではない。

平等を謳う日本国憲法が発布され、戦前の価値観が崩壊して大衆社会が到来し、占領軍と共にスウィングジャズやラテンといった音楽が都会の焼け跡に流れ込んだ。民謡や俗曲、戦前の大衆音楽とそれらが融合して生まれた雑種音楽が戦後の歌謡曲だ。

ひばりは、民謡調から俗曲、ブギウギに始まってジャズや、果てはロカビリーといった洋楽まで、天才ぶりを発揮してことごとく自分の物にしていった。そのスケールにおいて美空ひばりに比べられる歌手はいない。

声楽的に非の打ち所がない。「リンゴ追分」の、聴いている方が唖然とさせられる音程の正確さ、フレージングの美しさ。ボイスチェンジして地声が裏声に変わった時に響きが変わらずなめらかにつながり、声量が落ちない。

美空ひばりは型にはまらず、幅広い歌のジャンルに美声を響かせた。民謡なら民謡、演歌なら演歌、ポップス歌謡ならポップス歌謡という、ある一面を再現することはできても、美空ひばりを再現することはできない。ひばりのあとにひばりはいない。

キャリア末期では人気曲「時の流れのように」より「みだれ髪」がひばりの歌唱力を遺憾なく実感させる。「一本の鉛筆」は、ひばりに珍しい反戦歌だ。

「歌は歌。何を歌っても同じよ。」ひばりが聞いたら、一笑に付すかもしれないが、言うは易し、行うは難し、だ。現実にそれができるのはひばりの他にいない。華やかな芸歴の裏には、頂上に身を置く天才故の孤独があっただろう。しかし、それが美空ひばりの歌をいっそう味わい深い物にした。

写真
「悲しい酒」のシングル盤
二年前のこと。年配の女流画家Sさんが私の試聴室に見えたので「悲しい酒」を一緒に聴いた。NASに保存してある、1966年のオリジナル(アナログ録音)と1983年の再録音(デジタル録音)をLINNのネットワークミュージックプレーヤーで連続再生した。つまり、美空ひばりvs美空ひばり。20世紀を代表する名歌手の21世紀的な聴き方だ。

「最初の録音の素直な歌い口が好きだ。再録音は演出色が感じられる。」と私がいうと、Sさんの感想は意外なものだった。
「それは逆よ。最初の録音は歌の技巧がすべてだけれど、二度目の録音は女の人生の経験をにじませている。歌の幅、表現という点で二度目の録音が断然上。」美空ひばりの完璧すぎる歌唱を唯一超えていくのは、年輪を経たもう一人のひばりだった。歌手の成熟というものの、世界でも稀な偉大な実例だった。

美空ひばりがもし令和の今も存命なら82歳になる。亡くなって三十年が経つが、もし歌い続けていたらどんな名曲が生まれただろう、と想像する誘惑に駆られる。しかし、美空ひばりは私たちに十分すぎるほどの歌声を残してくれた。私たちはそのことに感謝してこれからも美空ひばりの歌を聴き続けていく。