ミュージック・ペンクラブ・ジャパン
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Classic Review

- 最新号 -

CONCERT Review

アントネッロ
<オペラ・フレスカ7>

ヘンデル(1685-1759):オペラ《ジュリオ・チェーザレ》3幕 原語上演字幕付き (1723-24)

指揮:濱田芳通
演出:中村敬一
美術:タナカ・ミオ(字幕/元訳:諏訪羚子)

ジュリオ・チェーザレ:坂下忠弘
クレオパトラ:中山美紀
トロメーオ:中嶋俊晴
アキッラ:黒田祐貴
コルネーリア:田中展子
セスト:小沼俊太郎
クーリオ:松井永太郎
ニレーノ:彌勒忠史
舞踏:聖和 笙

管弦楽:アントネッロ

2022年3月3日 川口総合文化センター・リリア 音楽ホール

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 歌手いずれも声のとおりが良く、何より音程がいい。配役のキャラクターをそれぞれが前面に押し出す。アントネッロは、古楽器の個性的な音色をかき立て、ドラマ展開に色合いも添えた。おかげで話の筋が頭に入りやすくなる。

 ソプラノの中山美紀(クレオパトラ)は、中でも抜きん出た表現力。高音の伸びが良く、滑らかな音運びと柔軟な歌にクレオパトラの美貌を映し出す。コルネーリアの田中展子は、抑えの効いたメゾの声質が役柄の凛々しさを浮き彫りにした。

 チェーザレ役の坂下忠弘は、出だしの緊張が徐々にほぐれる。歴史的人物像に彫りを出すにはあと一歩。敵将トロメーオとの丁々発止、クレオパトラとのロマンスに磨きがほしい。家臣役の松井栄太郎の力強い歌は、ローマの権勢を表現した。

 一方のエジプト勢。トロメーオの中嶋俊晴は、権力と女性への欲望をむき出しにする臨場感。それに仕える黒田祐貴は、歌と演技にメリハリがあるだけでなく、宮仕えの悲哀も滲ませる。笑いをそそったのは彌勒忠史のニレーノ、クレオパトラの従者だ。物語が単調にならないよう、彌勒は終始、権力者たちの欲望の火付け役として、歌と演技で狂言回しのハマり役。抑えを必要に感じる箇所もある。

 作曲者ヘンデル役をバロック衣装の聖和笙が音楽に合わせて舞踏する。18世紀人を舞台に載せることで、古代エジプト物語をヘンデルがどのように見ていたのか、手に取るよう。これも臨場感の増すアイデアだ。21世紀のわれわれが一緒に考える仲介者の役を果たし、物語に普遍性が見えてくる。

 指揮者・濱田芳通ならではのこうした音楽展開に、中村敬一の演出が見事に噛み合う。濱田と中村の両者の工夫が一体となり、楽しさ倍増のプロダクション。

 濱田は、歴史物語を単純な勧善懲悪で捉えない。ローマとエジプトの対立図式に、対照的な要素を随所で音楽的に表現する。ここでも物語を分かりやすくした。男声陣ではチェーザレの一途さに対して、敵将トロメーオの二面性を。女声陣では、クレオパトラの艶かしさに対して、コルネーリアの気品といった具合に。声質と物語の役割をリンクさせて面白い。

 その背景に、スッキリした音色のバロック・ギターと、低音の響きで魅了するアーチリュートとの使い分けが効く。ほかにもバロック弦楽器、ナチュラルホルンなど、多彩な表現がさらに両陣営の付き人役、アキッラとクーリオ、セストとニレーノの対比といったように展開する。

 音楽の静と動のメリハリもいい。登場人物のキャラクターを重ね、現代人にも「ある、ある」の世界を広げてみせる。歴史という時代の枠を乗り越え、人間の関係性、人間のサガを物語に見、音楽に聴く。これが濱田の音楽の世界なのだろう。(宮沢昭男)

写真:©Tomoko Hidaki.

CONCERT Review

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
第68回ティアラこうとう定期演奏会

 

ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ロ短調 作品104(チェロ:北村 陽)
ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68
指揮:高関 健(常任指揮者)

3月5日(土)ティアラこうとう大ホール

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©StasLevshin  
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 個人的にチェロの深く豊かな音が好きだ。プレトークで高関が、ドヴォルザークはチェロのキンキンする高音、ボワーと広がる低音を嫌っていたようだと言っていた。この日の北村のチェロは高音から低音まで音質がそろっていて、高音のキンキン感はまったく感じられず、全体的に渋みのあるいい音を出していた。もちろん、これは楽器そのものが持つ音も大きく影響しているだろう(1668年製のカッシーニ)。演奏で印象に残ったのは随所でフルートとの、そして第3楽章ではヴァイオリン・ソロとのアンサンブル。これは高関のサポートが大きかったと思うが、思わず聞き入った。また、非常に好感を持てたのは、主題の演奏だ。素直に弾いている。これを楽譜に忠実と言うならそうだろう。こんなところで妙に自己主張することはない。音楽そのものに語らせる。すばらしいアプローチだと思った。ただ、少し物足りなかったのは第2楽章の表情付けか。まだ18歳。これからも素晴らしい演奏を聴かせてくれるだろう。なお、アンコールでは聴衆の誰もが柔らかい音とその広がる響きに癒された。チェロ1本が会場全体を包み込む。心も身体も温かくなった。
 ブラームスの第1番。高関は中学のころから多くの演奏に接してきたという。その中で1952年2月のフルトヴェングラーの演奏が一番いいと紹介していた。一流の指揮者が好む演奏とは? 一般の聴衆は非常に興味深く、この話を聞いたことと思う。筆者も帰宅後さっそくフルトヴェングラーの演奏を聴いてみた。そこで、当然のことだが、高関の演奏とはまったく違うことをあらためて感じた。いい演奏とはどんな演奏か? 答は無数にある。だっていい演奏は無数にあるから。この日の演奏は気を張らずに聴いていても、やがて自然に引き込まれる演奏だった。これもいい演奏の一つだ。第1楽章の冒頭からオケ全体が一つの有機体として、一つの楽器のように聞こえた。運命の宣告のように聴衆の心をつかんでいた。弦のピチカート一つ取ってみても音がまとまっていた。第2ヴァイオリンがステージ上手の前に位置していたが、これが特に第2、4楽章で響きをより豊かなものにしていた。もちろん、ホルンやフルートなどの独奏にも聞き惚れた。第3楽章の牧歌的な雰囲気も楽しかった。フィナーレの有名なテーマを聴いた後のすがすがしさは忘れられない。(石多正男)

CONCERT Review

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
第350回定期演奏会

 

マーラー:交響曲第9番 二長調
指揮:高関 健(常任指揮者)

3月26日(土)東京オペラシティ コンサートホール

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©StasLevshin  

 マーラーの第9番は筆者が個人的にとても好きな曲で、楽しみにして出かけた。大オーケストラに圧倒されたいという願いをもって。話が逸れるが、ムソルグスキーの「展覧会の絵」、これは原曲がピアノ曲だ。それをさまざまな作曲家がオーケストラに編曲している。ラヴェルの編曲が一番有名で、演奏される機会も多い。筆者は他のいくつかの編曲と聴き比べたことがある。どれも大オーケストラ用に編曲されているが、ラヴェル以外(例えばリムスキー=コルサコフなども編曲している)は「たくさん楽器を使って、ジャンジャン鳴らせばいいってものじゃない」と思った。実は、これは演奏にも当てはまると思う。この日の高関の演奏はまさに大オーケストラの良さを隅々まで味合わせてくれた。大音量の総奏からヴァイオリンの独奏まで、さまざまな楽器の音を楽しめた。それぞれが魅力的だった。第1楽章冒頭のハープや遠くから聞こえるようなホルン、クラリネットの合いの手、やがて来るトランペットによる覚醒。この時点で非常に引き締まった演奏だと思った。第2楽章の管楽アンサンブル、コントラ・ファゴットも印象に残った。ここでは多くの演奏は森の小鳥を想起させ、少し牧歌的な雰囲気を伝えようとすると思うが、高関は荒々しい弦の音を管に対比させ不安な気持ちをも感じさせた。マーラーの心情をくみ取った結果だろうか。その流れを受けてか、第3楽章のブルレスケ(ふざけて辛辣に)では、楽譜の但し書きに「非常に反抗的に」とも書かれているのに従うように、その様子を弦が巧みに描いていた。遊んでいたかと思うとふざけたり、嫌みを言ったり、また遊び疲れた様子。これはギリシャ神話の神々がいたずらしているようであり、その情景を見るようだった。随所で聴かれたフルートやホルンなどの管楽器、またトライアングルの美しく、力強い音にも聴衆は心を奪われた。第4楽章は最後の「死に絶えるように」というマーラーの指示に向かって、深く激しい嗚咽が続いた。十分に生き、十分に苦しみ、そして満足した一生を過ごした後の死。最後の長く続く弦のピアニシモがあれほど積極的に聴衆に語りかけるとは。1時間半以上の大曲だが、短く感じた。全曲の形式把握、統一感の演出が良かったということだ。素晴らしい演奏だったと思う。(石多正男)