ミュージック・ペンクラブ・ジャパン
ミュージック・ペンクラブ・ジャパン

Classic Review

- 最新号 -

CONCERT Review

東京交響楽団
第688回定期演奏会

 

ベートーヴェン(1770-1827) :ピアノ協奏曲第4番 ト長調 Op.58
ショスタコーヴィチ(1906-1975) :交響曲第6番 ロ短調 Op.54

指揮 :井上道義
ピアノ :北村朋幹

2021年3月27日 サントリーホール

写真

 前半と後半で、一部弦の配置に変化を付けるほか、表現に対照的な展開で興味を引いた。前半はソリストの、後半は指揮者の個性を押し出すためだろう。それがライブ感に満ちた味わいになった。演奏の一回性、言い換えると、ホールの臨場感につながった。
 前半、北村朋幹をピアノ独奏に迎えたベートーヴェン第4番協奏曲。北村の表現は、繊細かつソフトな鍵盤タッチ。ヴァイオリンを対向配置で内声と低弦が奥から旋律線の美しさを炙り出し、ピアノ独奏をいっそう際立たせた。
 第4番はピアノ・ソロで始まる。序奏もなく始めるのは、ベートーヴェンのころは意表を衝いたはず。現代ならばそれは何か。そう北村は考えたのだろうか。サラッとアルペッジョを添えて曲に入った。しつこくない。この一瞬の音に心洗われた人は少なくないだろう。リハーサルからそうしたのだろうか。想像するだけで、マエストロ井上のギロッとした顔が目に浮かぶ。あるいはその時、食ってかかっただろうか。そう思うと、この先がなお楽しい。いや、本番でいきなりだとしたら、などと思いを巡らすだけでワクワクしてしまった。その瞬間サントリーホールは、一気に1807年ウィーン初演の会場にワープする。これまでにない音楽の鳴る瞬間とはこれだ、というベートヴェンのメッセージを聴くようだ。
 ルーティンからの脱却。これが北村のスタンスなのかもしれない。大事にしてほしい。北村と井上=東響の、対話と対峙のつば迫り合い。決定打がまたすごい。北村はなんと、自作カデンツァを弾き切った。それはベートーヴェンのピアノ・ソナタから引用も思わすなど圧倒的なインパクトを放ち、会場を釘付けにした。ベートーヴェンがこれでなければならないとわざわざ記したカデンツァ。それを無視したのではない。北村は、ベートーヴェンの「これでなければ」を言葉どおりに、現代ならばこれだとの思いを込めたのだろう。そう思いながら聴くと、こんなことができるようになった今をさらに喜びたくなった。
 さすがに、ここまで抜き打ちではしないだろうから、これは北村と井上で仕掛けたのかもしれない。ひょっとしたら、井上が挑発したのだろうか。いずれにせよ、井上の悪戯心は間違いなく次の世代に引き継がれた。そんな瞬間を見た、共有した。日本のクラシック音楽文化に欠落したものを井上は鋭く見抜く。それは即興性であり、革新性である。
 後半はその井上のショスタコーヴィチ。今宵は第6番ロ短調である。弦5部を通常配置に戻す。初演のムラヴィンスキーはこの配置ではないだろうから、今度は井上の個性の番だ。思いの丈、井上=ショスタコーヴィチ第6番に仕上がった。東響の大爆発といって過言でない。一本線の一筆書きのような3楽章に展開した。
 長いラルゴは、ウネウネと果てしなく続く。いったい、この暗さはいつまで続くのかと叫びたくなる第1楽章。井上にすれば、コロナ禍に喘ぐ自分たちと、旧ソ連スターリン体制下で、鬱屈した思いの作曲者を重ねているのだろうか。この後に何が来るかと。
 待ってましたのアレグロ、プレスト楽章。暗闇の思いを晴らす音楽とはこれだ、といわんばかりのショスタコーヴィチ=井上。音芸術とはこれだという主張がある。バッハやシューベルトの例を見るまでもなく、西欧音楽にロ短調といえば、一つのイメージがある。圧し殺すような冬のイメージ。そのどんでん返しを井上は狙ったのだろうか。ショスタコーヴィチの思いはここだと。
 トランペットから威勢良く音楽を引き出すときには、井上は右手でサッと敬礼の仕草をし、トゥッティで盛り立てるときには、身体を右に左に揺らしてダンスしてみせる。音の表現こそ井上は、前半の北村と対照的ながら、これでひっくり返しを図って出た。この点では前半後半で一本筋を通した。井上はここでもいっているようだ。“ルーティンからの脱却”と。これがショスタコーヴィチ第6番の本質だと教わるような展開だ。生涯掛けてショスタコーヴィチを極め尽くす井上にしかできない。ティンパニを乱打する清水太に会場は溜飲を下げたに違いない。コロナ禍だから聴けたのだろう。
 いや、これがライブの醍醐味だ。(宮沢昭男)

写真:東京交響楽団

CONCERT Review

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
ティアラこうとう第65回定期演奏会

 

コープランド:バレエ組曲「アパラチアの春」
コープランド:クラリネット協奏曲(独奏:山口真由)
チャイコフスキー:交響曲第4番 ヘ短調
指揮:高関健

4月17日(土)ティアラこうとう大ホール

写真

 この日は、音が鳴り始めてまず驚いたことがある。先月同じホール、同じオケで聴いたが、響きが大きく違うのである。先月は響き全体がほんのりと柔らかだった。ところがこの日はきりりと鋭角的な感じがした。先月の指揮は広上淳一、この日は高関健。指揮者によって音がこれほど違うのかとあらためて生演奏の面白さに心が揺れた。
 さて、「アパラチアの春」は1943~45年、第2次世界大戦中に作曲されたもの。とはいえ、アメリカ国内は戦場にならなかったことを反映しているのか、結婚式を挙げる若い二人が中心に描かれる。もともとバレエ音楽である。第5曲の花嫁のソロのダンスの音楽、また古典的な(高関が得意だろうと思われる)第7曲の変奏曲などは非常に説得力があり楽しめた。高関の情景描写の力を十分に味合わせてくれた。クラリネット協奏曲は、クラシック的な曲想がある一方、ジャズのベニー・グッドマンの委嘱で書かれただけあってジャズの技法や精神も大きく反映し、さらには1948年(第2次世界大戦直後)という時代を反映した当時としては前衛的な要素も入っている。さまざまな要素が入り混じった興味ある作品なのだ。それだけに演奏はかなり難しい。第1楽章の静かな情景描写はクラリネットがハープの伴奏と溶け合い、安らかでいつまでもその場にたたずんでいたいと思わせた。非常に美しかった。山口の音色がその情景によく合っていた。続くソロのカデンツァは元気な第2楽章への架け橋的な役割をする。ジャズのイディオムが出され、山口も第2楽章へ向けて次第に気持ちを高揚させていった。第2楽章は短い主題の繰り返しが楽しかった。オケとの協奏が面白く感じられ、力演だった。ただ、山口は常からオケの中で演奏しているためか、ソロ奏者としてよりもオケの一員として演奏している雰囲気が感じられた。これは少し残念だった。もっと前面に出てもよかったのでは。
 最後のチャイコフスキーの4番は、いつものことながら高関とシティ・フィルの強い絆、そして確固たる信頼関係が感じられた演奏だった。冒頭の金管によるファンファーレでの気の使いようは素晴らしかった。隅々まで配慮し、細部にこだわって演奏しているのが分かった。この緊張感が最後まで続いた。演奏者の気持ちが感じられるのは本当に楽しい。その後、第1楽章後半ではピアニッシモで演奏するヴァイオリンとティンパニ、そして木管の合いの手が印象深かった。聴き入ってしまった。また、第2楽章でもティンパニとホルン、ティンパニとコントラバスのアンサンブルなどをまったく飽きずに楽しめた。ティンパニの存在感はやはりスゴイ。第3楽章の弦のピッチカートは少しテンポが速すぎたのか、焦ったような落ち着かない印象を残した。とはいえ、第4楽章でのシンバル、大太鼓、ティンパニが同時に叩かれた一撃のフォルティッシモ、素晴らしかった。目の前で生身の人間が100人も必至で演奏している、その息づかいを肌身で感じる幸せは他では得難いものだった。(石多正男)

CONCERT Review

東京都交響楽団
第924回定期演奏会Aシリーズ

 

カレヴィ・アホ(1949-):ティンパニ協奏曲 (日本初演)
マーラー(1860-191) :交響曲第1番 ニ長調 Op.54

指揮 :大野和士
ティンパニ :安藤芳広(都響ティンパニ&打楽器首席奏者)
コンサートマスター :山本友重

2021年4月20日 東京文化会館

写真

 2021年度シリーズが開幕した。コロナ禍の開催は毎回、薄氷を踏む思い。昨年からずっと「都響スペシャル」の冠が付き、この日、晴れてそのタイトルが消えた。「定期演奏会」の文字が目に飛び込み、妙に懐かしい。まじまじと見入った。とはいえ、まだ先行き不透明な事態に変わりはない。
 この日のプログラム2曲は、シーズン開幕を堂々主張した。ことに1曲目、フィンランドの作曲家カレヴィ・アホのティンパニ協奏曲日本初演が圧巻。独奏者は都響打楽器首席奏者・安藤芳広。その演奏、スティックさばきに圧倒された。
 従来であれば、このような場合、聴衆サイドにも海外ソリストに頼る気持ちはあったかもしれない。コロナとは無関係に準備されていたものと推察するものの、コロナ禍でこの作品の日本初演のメッセージは、さらに意味が深まった。聴衆の間に国内奏者、国内オーケストラへの関心が高まっているいま、この難曲を楽団員だけの演奏で感動を呼び起こそうという気概と、ライブ会場で手応えを聴衆と共有しようという気迫。そうした大野=都響の意気込みを余すところなく伝えた。
 本作は2016年に作曲、初演された。それをいち早く取り上げられたのは、海外に活動拠点を置く大野を音楽監督に据える都響の強みだろう。打って出るに格好の作品だ。それを文句なしにやってのけた。都響はもちろん、定期会員、聴衆にとって、どれほど自信につながったか計り知れない。個人的には、日本人シェフだから可能だったと考える。
 曲は、ティンパニの静かな打音で開始する。緩やかに揺られる波間のような序奏が続く。それが一気にプレストに突入し、トゥッティに姿を変えた。安藤の正確無比のスティックさばき。同時に、珍しい楽器「コントラアルトフルート」が低い音で独特の雰囲気を醸し出す。奏者は客演フルート奏者・斎藤光晴。いつも縁の下の力持ちに同氏がいる。
 安藤の表現力は巧みだ。オーケストラとの駆け引き、弱音と強音のメリハリ、味のあるデュナーミクなど言葉語りのような能弁さ。かつて作曲家アホから「音楽の持つ社会的メッセージを重視」し、「作曲家も社会に影響を与えなければならない」と自説を直接うかがったことがある。それはこの作品よりもずっと前のことではあるものの、なるほど管楽器との掛け合い、他の打楽器との共演は、言葉がなくとも強烈なインパクトを放った。
 後半はマーラーの交響曲第1番。今年に入って16型編成を投入し、コロナ禍でクラシック音楽の存在感のアピールが続く。心強い。マーラーは都響の十八番だ。それだけに、むしろ代々の都響音楽監督はそれぞれ、マーラー像を築くことが求められる。
 この日の演奏では、総体的にエッジの立ったマーラー像から乖離する方向性を感じた。短調開始の弦5部はフラジオレットが控え目なのか、その後に出てくる潤いのある音色のクラリネットも躍動感を引き立たせ、木管、ホルンへと繋いでゆく。それは「春は曙」の言葉がふさわしい展開。
 2月の交響曲第4番(批評記事3月号)でも感じたのが、大野の描くマーラー像は、オペラ指揮者として観た表現と言えるだろうか。とても視覚的な捉え方のように聴こえる。かつても果たしてそうだったのだろうか。変化なのか、それとも深まりなのか、これまで大野の指揮するマーラーを詳細に聴いてこなかったことが悔やまれる。いずれにしてもとても興味深く、注視したい。(宮沢昭男)

提供:東京都交響楽団 (c)堀田力丸
作曲者カレヴィ・アホ:(c)宮沢昭男