ミュージック・ペンクラブ・ジャパン
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Classic Review

- 最新号 -

CONCERT Review

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
第343回定期演奏会

 

バーバー:弦楽のためのアダージョ 作品11
バーバー:交響曲第1番 作品9
伊福部昭:ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲
指揮:下野 竜也
ピアノ:小山 実稚恵

7月28日(水)東京オペラシティ コンサートホール

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(C)Naoya Yamaguchi  
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(C)Hiromichi Uchida  

 コンサートを選ぶ時、この批評記事の読者なら演奏家を第一の目安にするだろう。しかし、一般的な聴衆なら曲目で選ぶのではなかろうか。そんな目にはこの日の演目はかなり地味に見えたことと思う。超有名な曲は入っていない。冒頭のバーバーの<アダージヨ>は聴いたことがあるが・・・ というところではなかろうか。ところが、これが生演奏の魅力だと思うのだが、初めて聴く曲でも指揮者、ソリスト、オーケストラの力で非常に楽しく聴け、時間を忘れるほどの快いひと時を過ごせるのである。
 さて、まずは前半のバーバー。1910年生まれで1981年まで生きたアメリカの作曲家である。冒頭の「弦楽のためのアダージョ」はジョン・F・ケネディーの葬儀でも用いられたという。清らかだが悲哀に満ちた作品。弦楽合奏だけが表現できる説得力ある世界を描いていた。これは比較的知られた曲だが、次の交響曲第1番は筆者も初めて聴いた作品である。とはいえ、非常に楽しく面白く聴いた。楽器が多彩に使われているが、それらの音色や奏法、また表現力を楽しめることは生(なま)オケの魅力だ。木管楽器の高音が印象に残った。楽器がよく鳴っていた。第1楽章他、各楽章のクレッシェンドも説得力があった。緊張感が伝わってくると、聴衆は時間を忘れる。下野の4つの楽章それぞれのくっきりと区別した解釈も分かりやすかった。何を言いたいのか分かる演奏は、奏者まで身近に感じることができる。演奏後、下野が楽譜に向かって拍手を送っていた。作品の魅力を十分に把握しているからこそできるパフォーマンスだったと思う。
 後半の伊福部の作品、これは1942年、戦争中に初演されている。空襲で楽譜が焼失したと思われていた。しかし、なんと1997年にNHKの資料室で発見された。現代でもこんなことがある。このところ、伊福部の作品がかなり取り上げられるようになった印象がある。この作品も今後ともどんどん演奏されてほしいと思った。協奏曲ではないが、ピアノがオケの中を出たり入ったり多彩に活躍する。バランスがとてもよかった。第1,3楽章は日本の音階とリズムで「祭だ、祭りだ」という空気が会場中をおおいつくした。ピアノもオケも打楽器的な扱いがなされていて、そこに小太鼓がさらに大きな魅力を加えていた。若い作曲家が意気込んで作ったというより、楽しさにあふれている。下野も小山もオケのメンバーも、楽しそうに演奏する。その雰囲気が聴衆に伝わらないはずはない。第2楽章だけ西洋古典的な緩徐楽章になっていて、ここではピアノの抒情的表現が快かった。オーボエのソロからは物悲しさが伝わってきた。
 繰り返すが、知らない曲でも生(なま)の演奏会なら楽しみ方は無限だ。バーバーや伊福部の作品をさらにたくさん演奏してほしいと願いながら家路についた。 (石多正男)

CONCERT Review

読売日本交響楽団
第644回名曲シリーズ

 

カバレフスキー(1904-1987):歌劇《コラ・ブルニョン》
ショスタコーヴィチ(1906-1975):チェロ協奏曲第2番 ト短調 Op.126
ショスタコーヴィチ(1906-1975):交響曲第5番 ニ短調 Op.47

指揮:セバスティアン・ヴァイグレ
チェロ:イサン・エンダース
コンサートマスター:長原幸太

2021年8月23日 サントリーホール

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(C)StudioBOB  
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(C)読響  

 読響は、定期公演と並び「名曲シリーズ」でも興味深いプログラミングが続く。今回は旧ソ連時代の作曲家代表格の2人、カバレフスキーとショスタコーヴィチを取り上げた。2歳違いの2人は、成長過程で旧ソ連が誕生しその中を生きた。その音楽の表現がなんと異なることか。「社会主義リアリズム」の吹き荒ぶ旧ソ連下、その矢面に立った2人。読響は、ヴァイグレの求めに機敏に応えこの日、20世紀音楽芸術の一面を掘り下げた。

 カバレフスキーには、わが国でも戦後生まれの世代のほとんどが、小学校の運動会でお世話になっているだろう。あるシーンを音にする上で、カバレフスキーは抜群の才を放つ。それに異論はない。曲を耳にすると、1960年代の高度経済成長期の楽しかった思い出とともに、走らなくてはという気分に駆り立てられる。それほど脳裏に染みつく音楽である。

 だが学年が上がるにつれ、作曲された時代の旧ソ連の状況を知識として身に付けるうち、音楽との如何ともし難いギャップに囚われる。いつしかその音楽に身体が身構えるようにもなる。それとは逆に、肺腑をえぐる音の表現に共感を覚える人も多いのではないだろうか。昨今のショスタコーヴィチ受容は、そこにあるのかもしれない。改めてこの日の演奏にその思いを強くした。

 2人の作曲家に優劣を付けるのは筋違いだろう。また「社会主義リアリズム」の名称から、「社会主義」に限定して考えるのも皮相なこと。いかなる体制であれ、芸術文化を単純な物差しで推し量るようになったとき、いつの世も人間はこの問題を繰り返すのだろう。歴代の作曲家がオーケストラ曲やオペラに「ヨハネの黙示録」を取り上げるのも、それは鋭敏な彼らの感性が捉えた表現体であり、ある種の警鐘なのかもしれない。その意味では、カバレフスキーの音楽にその点、物足りなさは残る。カバレフスキーは、あえてそこに足を踏み入れなかったといえるだろう。

 歌劇《コラ・ブルニョン》序曲も、カバレフスキーの特徴を全面に展開する。繰り返されるシンコペーションでは、読響弦楽部の弦とリズムを刻む打楽器群、および管との一体感が何にも替え難い。楽員の爽快感がダイレクトに伝わった。この作品が世紀の大粛清の最中に作曲されたというのは、いつ聴いても信じ難い。まさに音楽は魔物だ。

 これと対照を成すのがショスタコーヴィチ。今宵チェロ協奏曲は第2番、交響曲は第5番を取り上げ、それを一層際立たせて興味深い。前者はト短調、後者はニ短調。調性の中でも両者は暗さに絶大な効果を発揮する。ことにニ短調は、「レクイエム」に欠かせないほど表裏一体の調性である。

 イサン・エンダースのチェロは、この核心を捉えるように朗々と低弦を響かせた。ト短調は弦が鳴りやすい。エンダースもそれを意識した奏法なのだろう。一転、第2楽章では読響各セクション首席と対話する勢いのある展開。フィナーレは、チェロの薄暗いピチカートと長音の背後で響くハープ、ウッド・ブロック、シロフォンが実に印象的。果てしなく続く闇を思わせた。カバレフスキーの時とは逆に、1960年代の世界の深刻な東西冷戦に、いやが上にも思いを馳せた。

 惜しむらくは第1楽章のトラブル。エンダースは譜面を使い電子版だった。近年、電子版が増えフリーズしないかと不安がよぎる。それが起きた。比較的早い段階からフットスイッチに不具合が生じたようで、ついに彼の方からヴァイグレに中断を求めた。聴き手視点からすると、電子版譜面は勘弁願いたいが、せめて時期尚早ではというに留めたい。

 交響曲第5番では、ヴァイグレは今では珍しい遅めのテンポを取った。読響各セクションもソロをタップリ聴かせる。第2楽章冒頭チェロ、コントラバスもズシリと胸に響く。ただ一捻りもふた捻りもあった前曲チェロ協奏曲と並ぶと、これまで作曲者の代表作の一つの位置を占めていた同曲が違った顔に見えた。作曲者の若さもあるとはいえ、指揮者の表現に捻りのようなものが備わると、さらにヴァイグレの味に深みが増すだろう。(宮沢昭男)