ミュージック・ペンクラブ・ジャパン
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エッセイ

最新号

追悼 ピート・シンフィールド

大橋伸太郎

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Peter John Sinfield
27th December 1943-14th November 2024 
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in his KINGCRIMSON day 

 さる11月14日にイギリスの作詞家、詩人、ピート・シンフィールドが世を去った。享年80歳だった。
 シンフィールドは、プログレッシブロックの代表的なバンド、キング・クリムゾンのオリジナルメンバーだが、楽器を演奏せず、ヴォーカルで参加するわけでなく、彼の役割は歌詞を提供し、アルバムのコンセプトを作ることだった。ちなみにアルバムには”Device”とクレジットされている。いわば黒子の役割のメンバーだったが、その存在はたいへん大きなものがあった。彼の書く歌詞は、それまでのロックンロールの言葉から遠く隔たっていたのである。
 ブルースロックにせよ、ハードロックにせよ、フォークロックにせよ、ロックンロールが歌い上げるものは、きまって恋愛、セックスであり、フラストレーションであり、社会への怒りだった。しかし、ピート・シンフィールドの言葉は、ときに哲学的、ときにユーモラス、ロマネスクな物語性にあふれていた。その歌詞は言葉遊びのような一面があり、シンフィールドの書く歌詞が正しく理解されるのに長い時間がかかった。キング・クリムゾンのアルバムには、しばしばシンフィールドの英語詞が日本語訳で掲載されていたが、フランスの象徴主義を思わせるような重厚で高踏的な日本語に置き換えられてしまい、本来の奇妙な味わいが影を潜めてしまっていた。本来のニュアンスやユニークさが伝わるのは、ずっと後になってからだった。
 キング・クリムゾン退団後に、ピート・シンフィールドはEL&Pやイタリア出身のバンド、PFMの英語詞を担当した。1980年代になると、セリーヌ・ディオンやシェール、バリー・マニロウ、ダイアナ・ロスといったメジャーな音楽家に歌詞を提供した。しかし、彼の言葉が輝きを放っていたのは、圧倒的にキング・クリムゾン時代だった。
 ピート・シンフィールドの書く歌詞は、当初は異端だったが、ロックの言葉の語彙を少しずつ変えていった。ホームシアターの取材で、小泉今日子の楽曲で知られる作詞家の森雪之丞さんにお会いした時に「僕はピート・シンフィールドから大きな影響を受けた。」と語っていたのが忘れがたい。
 キング・クリムゾンを退団した1973年に、彼のもとに馳せ参じたバンドの元同僚たちのサポートを得て製作した、彼のほとんど唯一のリーダー・アルバムが「スティル」。このアルバムでピート・シンフィールドは作詞作曲とヴォーカル、ギターを担当している。
 「スティル」はクリムゾンのファンの多かった日本で好評を持って迎えられた。キング・クリムゾンがメンバーを一新してハードロック色を強めた一方で置き去りにした、叙情的でロマネスクな部分がこのアルバム「スティル」にあふれていた。私は高校生だったが、ターンテーブルにこのアルバム「スティル」が繰り返し乗った。ピート・シンフィールドの決してうまくはないヴォーカルの優しさ、そして何より、歌詞の味わい深さに引き込まれた。生涯の愛すべきレコードの筆頭に挙げたいと思う。
 アルバムタイトル曲「スティル」の歌詞を紹介しておこう。
 
 いまでもなお、僕は、自分が小川だったらと思う。暗い井戸から湧きいでて苔むした水車をぐるりと回して海へたどりつく。そのとき僕は何かを知る必要はないだろう。
 いまでもなお、僕は、自分が木であったらと思う。四季の移り変わりを年輪にきざみ、空からしたたる恵みを飲み干し、冬の凍てつく風に耐えながら、その理由を問う必要のない木であることとはどういうものなのだろう。
 いまでもなお、なぜ、僕がここに、こうしているのか知りたい。僕が口にする言葉は殻竿(からざお)のように、美しい地表をすべっていくだけ。まるで自分のしっぽをぐるぐると追いかける犬のように。
 洋服屋、鋳掛け屋、プリンスたちやインカ帝国の人たち、船乗りや潜水夫、僕のずっと前に生きた人たち、僕のような人たち。

 いまでもなお、僕は、自分が鳥だったらと思う。夜明けがやってくると優しい声でさえずり、全世界が目を覚ますと、彼方へ飛び去っていく。鳥たちはむなしい結末を求めはしない。
 いまでもなお、僕が前世に、鳥か小川か木として生きたことがあったか知りたい。高くそびえるには深く沈まなければいけない。刻々と変わる潮のように世界は移り変わっていく。
 皇帝たち、ファラオたち。預言者と英雄たち。詩人たちと浮浪者たち。僕より前にいて、これから存在するひとたち。
 画家たち、踊り子たち、恐れを知らぬ登山家たち。商人たち、賭博師たち、銀行家たちと渡世人たち、勝者たちと敗者たち、天使たちと酔いどれたち、ビートルズとボランたち、雨のしずくと大海たち、王様たち、質屋たち、牧師たち、臆病者に指導者たち、そして皇帝たちやファラオたち…

 私のつたない訳から、ピート・シンフィールドの言葉がそれまでのロックンロールの歌詞から遠く隔たっていたことが伝わっただろうか。
 ロックの言葉を変えた偉大な作詞家ピート・シンフィールドの業績を偲び故人の冥福を、いや彼が小川か木か鳥かそれ以外の何かに生まれ変わって生き続けることを願い、追惜の筆を措く。

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Still Pete Sinfield 

NHKスペシャル「熱狂は世界を駆ける〜J-POP新時代〜」を拝見して

久道りょう

NHKで放送されたNHKスペシャル「熱狂は世界を駆ける〜J-POP新時代〜」を拝見した。

4年前、コロナ禍の中、音楽業界は死に体に等しいような状況になった。
ライブは軒並み中止になり、音楽番組もそれまでのライブ形式による放送から一変。
過去の映像を流したり、リモート出演をさせたりと、苦肉の策を取って、なんとか視聴者に音楽を提供しようとした。

また、アーティスト自身も観客の前で歌うことが出来なくなり、歌う場所を失った。
そういう中、自身のSNSのチャンネルを使って歌を配信したり、ファンに話しかけたり、と、いかに音楽に繋ぎ止めておくかという方法を模索していた。
中止になったライブの代わりに、会場を借りて、ひとりぼっちのライブを配信する。
とにかく「音楽の熱量」を絶やさない工夫をさまざまな形でアーティストも含めて業界全体が続けていた。

しかし、そういう状況が、実は世界に遅れを取っていた日本のデジタルコンテンツを使っての音楽発信という部分を一気に加速させるきっかけになったのではないかと思う。

当時、日本は、音楽のデジタル音源化やデジタル配信という部分に於いて、世界から遅れを取っていたと感じる。
K-POPがコロナ禍をきっかけに世界を席巻するコンテンツに育ったのは、韓国ではデジタル産業やデジタルコンテンツが当たり前だったからだ。
さらにダンスと歌の融合性を特徴とする「見せる音楽」であるK-POPは、MVを使って映像と音楽の世界を早くから構築していた。
その為、コロナ禍でリアルにライブが出来なくても、映像を使ってのライブ配信や楽曲の提供などの対応が非常にスムーズに出来たのだろう。
また、音楽の特性から言っても、映像との合体は、K-POPを世界に広げるのに強力な武器だった。
そうやって、コロナ禍の中、K-POPは音楽コンテンツの中の1つのジャンルというポジションを確立したのである。
韓国に限らず、世界中にファンを作り出したのは、映像の持つ力と言っても過言ではない。

しかし、日本は映像と音楽の一体化という部分では大きく遅れを取っていた。ミュージックビデオというものを軽く扱い、そこに価値を見出そうとしなかったからだ。
CDの売り上げというリアル産業に固執してきた為にMV制作にそれほどの力を入れてこなかったのも事実。
それがコロナ禍になり、映像というものを嫌でも意識しなければならなくなった。
また、ネット、SNSというものを使ってしか、音楽を発信出来ない状況に陥ったことは1つのきっかけになったかもしれない。
兎にも角にも、コロナというものの影響を大きく受けて、音楽産業は前へ進まざるを得なくなった。

さらに、映像との一体という部分で、アニメとのコラボがある。
元々、日本のアニメは世界的に評価が高かったが、熱心に観る層は限られていたかもしれない。
しかし、コロナ禍の中、在宅を余儀なくされ、娯楽というものが限られた中で、日本のアニメが多くの人に観られる環境は整っていたと言える。
アニメ業界も映画館での新作の公開延期などの影響は大きかったが、Netflixでの配信など別の媒体を使っての興行は可能だった。
また、イベントやライブが次々に中止する中、エンタメに渇望していた層を取り込むことに成功したかもしれない。

アニメ作品の主題歌というものは、以前からアーティストが歌うものが多かったが、作品の世界的ヒットによって、J-POPが世界に広がる1つの土壌になったと感じるのだ。

J-POPにとって、アニメは強力なパートナーになった。

主題歌を通して、アーティストを知った層が、そのアーティストの他の楽曲をYouTubeを通して知るようになり、それがファン層を拡大、構築していく。
そういう構図がこの1、2年のJ-POPの世界的広がりと人気の要因の1つではないだろうか。

ファンになってもらう為には、先ず、存在を知ってもらうこと。
これが重要なのだ。

今まで欧米の音楽を聴いてきた層がJ-POPというものを知る。
現代の10代、20代、また30代の一部のアーティスト達は、その上の世代と違い、洋楽の影響をそれほど受けていない。
彼らの上の世代は、洋楽の影響を受けつつ自分達の音楽を作り上げてきた。
しかし、その下の世代の多くは上の世代が作った和製ポップスを聴いて育ち影響を受けてきた世代だ。
その世代が作り出す音楽は、さらに和製ポップスであり、洋楽とは一線を画していると感じる。

日本人は、既存のものを自分達の価値観に合わせて再構築することが得意な民族である。
音楽も、洋楽からの影響を受けて作られた和製ポップスにさらに自分達の価値観や感覚を取り入れ独自のポップス音楽を作り上げていく。
そうやって進化してきた現代のJ-POPには、さまざまなジャンルがあり、雑多な音楽なのである。
さらに、この雑多な音楽を受容する寛容な価値観が日本社会にはある。
この寛容さが、日本社会の特徴であり、成熟でもある。

アーティスト達は、自由な発想で、何にも縛られることなく、自分達の音楽を発信する。
この自由さが、J-POPの一番の特徴であり強みだと私は考える。

7年前、私が音楽評論を専門に書こうと決めた時に印象に残った三浦大知の言葉がある。
正確に覚えているとは言えないが、彼は、「自分が歌う日本語の曲が、世界の街角で流れている。人々は、「今度の大知の曲はいいね」と言いながら日本語を口ずさんでいる。そんな光景が見たい」というような主旨の発言を読んだ記憶がある。

私は、これに非常に感銘を受けたのである。

彼は、その頃、日本人で最もグラミー賞に近い存在と言われ、日本よりも海外の評価の方が高かった。

「日本語の歌が世界の街角に流れている」

それは、想像するだけでなんと魅力的な光景だろうか。


私はその数年前に、日本で活躍していた韓国の東方神起がベトナムだったかで行ったライブの映像を観たことがあった。
そこでは、彼らが歌う日本語のJ-POPの楽曲をベトナム人のファンが大合唱しているのだ。
日本語を何も知らない、何も話せない彼女達が、好きな東方神起が歌っている、というだけで歌詞を必死に覚え日本語で歌っている。
その光景を見た時、なんとも言えない感動を覚えた。

なぜなら、日本以外で楽曲を歌うのには、英語が必須だと思っていたからだ。

しかし、そうではない。
日本語の歌が流行れば、世界中の人が日本語で歌を歌うようになる。
そんな夢のような光景を目の当たりにして、日本人として気持ちが高揚したのを覚えている。
だから、三浦大知の「僕の日本語の歌が世界の街角で流れている」という話に、それが現実になればいいと思った。


今、世界を目指す日本のアーティストが増えている。
藤井風、米津玄師、Ado、YOASOBIなど、名前を挙げたらキリがないほど、多くのアーティストがアジアや世界でツアーを展開している。
また、Number_iのように、日本でのトップのアイドルにとどまること無く、アメリカの音楽フェスで無名のアーティストとして実力を試そうとするグループもいる。
世界の場所で、アーティスト達は堂々と日本語の楽曲を歌い、観客も日本語で合唱する。

以前、RADWIMPSの野田洋次郎がヨーロッパや南米などのライブで、アニメの主題歌を英語で歌うと、「観客から「日本語で歌って」と言われ、会場で日本語の大合唱が始まるのに感動した」という話をしていた。
今回の番組で映されたCreepy Nutsや新しい学校のリーダーズのライブでの映像も、皆、日本語で歌い、会場と一体化している。
そして日本語で歌っている観客は実に楽しそうだ。
そこに言語の壁はない。

「日本語だから、世界には通用しない。世界に出ていくには、英語で歌わなければ」という過去の価値観は今や幻のものと言える。

韓国では、日韓パートナーシップが締結された後も何十年も日本語の楽曲が流れることはなかった。
しかし、昨年、アニメ「推しの子」の爆発的ヒットを受けて韓国の音楽番組に招待されたYOASOBIが日本語で歌う映像が放送されてからは、堂々と街中で日本語の楽曲が流れ始め、日本のアーティストのライブはチケットが即完売する。
「日本語がこんなに綺麗だとは思わなかった」
「J-POPを聴いていることを堂々と話せるようになった」
韓国では今、J-POPが大ブレイク中だ。

日韓の音楽関係に於いて、韓国の音楽が一方的に日本に流入してくるだけの時代は終わった。
かつて、隠れてJ-POPを聴いていたと言われる中高年齢層の韓国人が会場に多く詰めかけ若者と一緒に日本語で歌う。

J-POPの強みは、アーティスト層の厚みと音楽の多様性にある。
70代後半を過ぎてなお現役で歌い続けるアーティストの楽曲を、世代を超えて若者が享受する。
そうやって優れた楽曲はカバー曲として何十年も受け継がれていく。

日本の音楽の広がりは、まだまだ止まりそうにない。
そう思った夜だった。

◆物故者(音楽関連)敬称略

まとめ:上柴とおる

【2024年11月下旬~2024年12月下旬までの判明分】

・10/16:宮尾益実(「宮尾すすむと日本の社長」のキーボード奏者。元TBS社員)58歳
・11/09:阿南武夫(赤坂のディスコ「ムゲン」の元支配人)96歳
・11/16:ディ―ヴァ・グレイ(米R&Bセッション・シンガー。シック、ルーサー・ヴァンドロス、チェンジなど)72歳
・11/18:柏原満(音響効果技師。「宇宙戦艦ヤマト」など)91歳
・11/22:ハリー・ウィリアムス(R&Bグループ、ブラッドストーンのオリジナル・メンバー)80歳<逝去の日付は公表日>
・11/26:河村俊秀(ペトロールズのドラマー)45歳
・11/27:ボブ・ブライヤー(元マイ・ケミカル・ロマンスのドラマー)44歳
・11/28:ジュリアーノ勝又(米米クラブの元メンバー。キーボード奏者)<年齢不詳。逝去の日付は公表日>
・11/29:ウィル・カレン・ハート(レーベル/ミュージシャン集団、エレファント6・レコーディング・カンパニーの共同創設者。オリヴィア・トレマー・コントロールのオリジナル・メンバー)53歳
・12/01:中平穂積(ジャズバー「DUG」創業者。写真家。写真集「JAZZ GIANTS 1961―2013」)88歳
・12/02:康芳夫(伝説のプロモーター。ネッシー、オリバー君、猪木vsアリ、家畜人ヤプーなどなど。俳優業も)87歳
・12/02:劉家昌(作詞・作曲家。歌手。映画監督。テレサ・テン、ジュディ・オングらに楽曲提供)83歳
・12/06:中山美穂(俳優。歌手)54歳
・12/09:ニッキ・ジオヴァニ(米詩人。作家。活動家。朗読等のレコードもリリース)81歳
・12/11:間宮芳生(作曲家。映画「火垂るの墓」、ドラマ「竜馬がゆく」などの音楽も担当)95歳
・12/11:市川捷護(音楽・映像プロデューサー。ライター。小沢昭一「ドキュメント 日本の放浪芸」シリーズ、「音と映像による世界民族音楽大系」などを担当)83歳
・12/15:ザキール・フセイン(インド出身のタブラ奏者)73歳
・12/17:アルファ・アンダーソン(シックのヴォーカリスト)78歳
・12/18:スリム・ダンロップ(ザ・リプレイスメンツのギタリスト)73歳
・12/18:田村隆(放送作家。脚本家。「シャボン玉ホリデー」「巨泉・前武ゲバゲバ90分!」「8時だョ!全員集合」「ムー」「ドリフ大爆笑」など)83歳
・12/20:加茂さくら(俳優。元「宝塚歌劇団」娘役。ワイドショー「3時のあなた」の司会担当も)87歳
・12/21:ケイシー・ケイオス(米ハードコア/メタル・バンド、エイメンの創設者でフロントマン)59歳