ミュージック・ペンクラブ・ジャパン
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エッセイ

最新号

ミュージック フロム ジャパン 3

森本 恭正

William Littler
William Littler
 「音楽による出会い 日本・米国・カナダ」と題して、コンサートとシンポジウムを開催するため、ミュージック フロム ジャパン(MFJ)は北米音楽批評家協会と提携し、北米で活躍する音楽批評家10人を連れて今年7月に来日した。筆者はこのうち5名の音楽批評家にインタビューする機会を得た。
 先月に引き続き、今月はその三人目ウィリアム・リトラー氏(トロント・スター紙)である。

 「音楽評論家が職を失いつつあるというのは本当ですか?」
 「その通り。北米では、書く場所がなくなってきている。そもそも新聞をみんな読まなくなってきているからね。批評に関して言えば、北米の批評家の多くはジャーナリスト出身で音楽の専門家じゃない。つまり、ブログで毎日のようにコンサートの感想を綴っているアマチュアの人たちと、〈聴く専門家〉という意味でいえば、大差ない。そういうこと(ブログはただで、こちらは有料)もあって、ことにオタクの多いクラシック音楽の批評記事は減っている。私の若いころは逆だった。ほとんどがクラシックでポピュラーの批評なんかまるでなかった。
 ところで、カナダで初めてビートルズの批評記事を書いたのは私なんだよ」
 1964年8月22日、ザ・ビートルズは初めてバンクーバーでコンサートを開いた。当時大学を卒業したばかりのリトラー氏にカナダ第三の新聞社バンクーバー・サン紙からその大役が回ってきたというのだ。
 「で、どうでした?」
 「最悪だと思って正直にそう書いた。それを当時の編集長は芸能面でなく第一面に載せた」
 「ええ!?反響は?」
 「分厚い手紙の束が翌日から編集部に届いたよ。勿論全て私に対する非難。私は、一夜にしてバンクーバーで最も嫌われた男になった。正直にいうとね、それまでポピュラーミュージックそのものを聴いたことがなかったんだ。勿論ザ・ビートルズも。彼らの名前さえ知らなかった」
 リトラー氏の書く文章はウィットに富んでいて、決して彼が保守的なクラシック音楽オタクとは思えないのだが、実は今でも、ポップスもジャズも全く聴かない(=理解しない)という。
 米国の音楽や音楽動向を一般化することの難しさは先月書いた。が、それでも敢えて言えば、北米の評論家を含めたクラシック音楽愛好家のクラシック音楽への偏向ぶりはかなり激しい。ジャズもロックも全く聴かず、その上映画音楽をことさら下に見る人たちが相当数存在する。実際、米国で、スピルバーグ監督の映画には不可欠な、ジョン・ウィリアムズの作曲家としての才能を力説すればするほど、「この人いったい何言ってるんだろう」という顔をされた経験が、私にはある。今回インタビューした5人の批評家達もその全員が、そうした部類、つまり激しくクラシック音楽に偏向した人々であった。
 映画音楽に関して言えば、ハリウッドの映画音楽の礎を築いたのは、モーツァルトの再来といわれたコルンゴルトをはじめ、ナチの迫害を逃れてヨーロッパから米国に渡った、極めて優秀なクラシック音楽家たちである。見下される理由は何もないと、私は思うのだが。
 さて、この、米国若しくは北米での、クラシック対ポピュラー(ジャズ及びロック)という構図は、日本では洋楽(クラシック、ジャズ及びロック)と演歌もしくは歌謡曲の関係に近いのではないかと思う。つまりクラシックの批評家だが、ジャズもロックも聴く、若しくは聴かなくても下に見たりしないという人は数多くいるが、その上演歌も好きだという人は、ほとんどいない。実際、当ミュージック・ペンクラブ・ジャパンでも、演歌を主な評論対象の一つとして挙げている会員は一人だけである。
 「ザ・ビートルズの批評のあと、部数が出たことを喜んだ編集幹部は私に今度はレイ・チャールズの批評記事を書けといってきた。ソウルミュージックなんてザ・ビートルズよりもさらに聴いたこともなかった。そして、掛かる演奏会に行き、その夜こう書いた。ターザンが乗った象が白人の象牙取りのハンターを踏み潰した時以来、こんなに足を踏み鳴らす音楽は聴いたことがない、と。今度は、あんな能のない記者は首にしろと署名運動が起きたね。もっとも、またまた部数が伸びて編集長は喜んだけど」
 さて、インタビューの間中、私を苦笑させ時には爆笑させたリトラー氏だが、最後に彼が2014年にトロント・スター紙に書いた記事から以下の言葉を引用したい。 批評とは何かという問いに、端的な答えが述べられている。
 ―批評という行為が、もし説得力を持ち得るものであるとするならば、それはそれが、批評される対象への理解と共感から導き出されたものでなくてはならない―
 勿論彼は、ザ・ビートルズに関して自分はそうではなかったと(ちょっとしぶしぶ)認めている。記事にこうタイトルを付けて。
 So maybe I was wrong about the Beatles. (Toronto Star /Sept.6.2014)

◇先月の「ミュージックフロムジャパン2」で掲載されたJOHANNA KELLER氏の写真が誤って来月登場予定のNANCY MALITZ氏のものになっておりました。現在バックナンバーに収められているものは既に正しいKELLER氏の写真に訂正されております。両氏、読者の皆様及び関係各位に心よりお詫び申し上げます。 HP編集長 森本 恭正

「The Show-A Tribute to ABBA」
 インタビュー: カミラ&カーチャ

高木信哉

カミラ&カーチャ The Show-A Tribute to ABBAは、ABBA の最初のシングルリリース45周年を記念して、2001年から活動を開始した。以来17年に40カ国でおよそ700公演を行い、大活躍している。
この度、9月10日~19日まで、計7回の全国公演を行う。その前の9月7日、東京・有楽町の日本外国特派員協会にて、記者会見が行われた。以下、そのインタビューを公開する。
<合同インタビュー: カミラ&カーチャ>
----バンド結成のきっかけは?
◇カーチャ(Katja Nor):1996年にカミラと二人でデュオを組んだ。歌ったら、ABBAそっくりと言われた。それがきっかけです。
◇カミラ(Camilla Dahlin):ABBAは、9歳の時、初めて聴いた。そのときのヒット・ソングが「ウォータールー」だった。だから、バンド名を『ウォータールー』に決めた。1999年、有名なスウェーデンのコンペティションのテレビ番組"Sikta mot Stjärnorna"で、優勝した。それがデンマークのプロデューサーの目に触れて、スタートしたの。
(注):(彼女たちは、ABBAのビヨルンとベニーに許可を求め了解も得た)
----TVのコンペティションや世間から、なぜ認められたの?
◇カーチャ:私たちは、ABBAに見えて欲しいので、ディテールを作りこんだ。アグネタとフリーダの歌い方、しぐさを徹底研究したの。他のABBAのトリビュート・バンドは、カツラだけで、私たちは地毛でやったわ。もう22年間も地毛でやっているの。
カミラ&カーチャ----今回の「The Show-A Tribute to ABBA」の特徴は?
◇カミラ:生きたABBAが観られます。昔に戻れます。
◇カーチャ:有名な曲はもちろんのこと、レアな曲も混ぜるので楽しめます。
---- ABBAの曲の中で一番好きな曲は、何ですか?
◇カーチャ:私は、「イーグル」よ。
◇カミラ:私は、「サンキュー・フォー・ザ・ミュージック」ですね。
----今回の衣装に特徴はありますか?
◇カミラ:日本からインスパイアされたコスチュームを選びました。
◇カーチャ:4枚のドレスをお持ちしました。
----日本では8月24日から、映画『マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー』が封切られました。1作目の『マンマ・ミーア!』と今回の2作目とどちらが好きですか?
◇カーチャ:続編の『マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー』の方が良かった。
良い意味で、期待を裏切ってくれたから。
◇カミラ:オリジナルの『マンマ・ミーア!』の方が良かった。
だって、続編はメリル・ストリープ扮するドナが亡くなっている。ショックだったわ。
----2013年にオープンしたABBAの博物館「ABBA・ザ・ミュージアム」は、来場者が1日2,000人、年間70万人が訪れます。大盛況の秘訣は、何だと思いますか?
◇カーチャ:やっぱりABBAの人気と実力の賜物じゃないかしら。
◇カミラ:「ABBA・ザ・ミュージアム」がとても面白いからよ。あるブースでは、カラオケで、ABBAのヒット曲が歌えるの。メリル・ストリープが熱唱した「ザ・ウィナー」も歌えるわよ。ABBA(大きな写真)と並んで、記念写真も撮れるのよ。
あとは、ABBAの4人は、プレス(マスコミ)との関係が良かったから、良い報道をしてもらえたから、「ABBA・ザ・ミュージアム」もどんどん有名になっていったのよ。
----どうもありがとうございました。
 今度、「ABBA・ザ・ミュージアム」に行ってみます。

ミュージカル「マイ・フェア・レディ」に
新しい女性の生き方を感じ

本田浩子

マイ・フェア・レディ 9月18日に渋谷ヒカリエ内のシアター・オーブで東宝主催の「マイ・フェア・レディ」を観る。広い劇場は3階席まで一杯で、熱気で溢れていた。オーケストラが始まると、そこは既にシアター・オーブではなく、ロンドンのコベント・ガーデンのオペラ・ハウスの前だった。劇場がはねたところで、着飾った人々が出てくる。そこに場違いな怒声が響き、花売り娘イライザ (神田沙也加) が登場する。劇場帰りのフレディ・アインスフォードヒル (平方元基) がぶつかってきて、売り物の花が泥だらけになったと口汚く文句をつけるが、母親の為にタクシーをつかまえようと、イライザに構わず行ってしまう。いきり立ったイライザは、アインスフォードヒル夫人に「あんたの育て方が、悪い。」と文句を言うが、下層階級の花売り娘に耳を貸そうとしない。
 悪たれをつくイライザの言葉を記録している一人の紳士こそ、言語学者のヒギンズ (別所哲也) だった。偶然にもそこに居合わせたのは、インドからヒギンズを訪ねてきた、ピッカリング大佐 (相島一之) だった。ヒギンズは、「私ならこのひどいコックニー英語をしゃべるこの娘を、半年で貴婦人に仕立て上げる」と大見得を切る。ホテルに滞在すると言う大佐を、ヒギンズは自分の屋敷に案内する。
マイ・フェア・レディ 1956年にブロードウェイで上演されたこのミュージカルは、1913年のバーナード・ショーの舞台「ピグマリオン」が元になっている。まだまだ身分差が厳しかったこの時代に、上昇志向の高い女性がヒギンズ教授の特訓に耐えに耐えては、日々精進する物語は、1956年のブロードウェイ・ミュージカルで大ヒットの後、同名のオードリー・ヘップバーンの映画で世界中に知られることになった。
 ヒギンズの屋敷に現れたイライザは、「レッスン料を払うから、正しい英語を話せるようになって花屋を持てるようになりたい」と言う。高名な言語学者のレッスン料など、花売り娘に払えるものではないが、ヒギンズはこの話に興味を持ち、六ケ月では、難しいと思った大佐は、成功したら費用は私が持とうと申し出る。
 元の英語の酷さが、特訓に次ぐ特訓で何とか形になってきたイライザは、上流階級の人々が集まるアスコット競馬場にデビューするが、競馬に夢中になったイライザは、本性丸出しの叫び声で罵声をあげ、ヒギンズの計画は頓挫してしまう。しかし、そんなことでヒギンズはへこたれず、やがて開かれる大使館での舞踏会で正式にデビューさせようと目論む。
マイ・フェア・レディ 装いも美しくマナーも洗練されたイライザに、会場はどよめき、トランシルべニアの女王は称賛の言葉をかけ、彼女の息子の王子と踊るように声をかける。花売り娘だった正体がばれるかとの不安は、吹き飛び、期待した以上の成果にヒギンズは大喜び、帰宅すると「今日からぐっすり眠れる!」と言うと、スリッパはどこだとイライザに問いかける。努力してきた自分には何の誉め言葉もないことに腹を立てたイライザは、屋敷を飛び出していく。
 イライザが家出して、ヒギンズはどんなにイライザ頼りの日常だったか思い知る。ヒギンズの母 (前田美波里) の屋敷でイライザに再会したヒギンズに、イライザは自活を宣言。自分の仕事は見事に成功したと喜ぶヒギンズだが、イライザとは別れるのは寂しく、思わずイライザに愛していると呟く。
マイ・フェア・レディ このミュージカルの成功は、何といっても、時代を超えたストーリーの斬新さとアラン・ジェイ・ラーナーとフレデリック・ロウの楽曲の素晴らしさに尽きると言えるが、翻訳・訳詞・演出のG2は、出演者のセリフ回しの随所に工夫が見られ、21世紀の舞台として、見事に蘇らせている。自惚れやで、独身主義で、おまけにマザコンというこの難しいヒギンズ役を別所哲也はサラリと体現しているし、神田沙也加のイライザは、初々しい魅力に溢れ、ヒギンズが惚れるのも時間の問題と納得させる。家政婦のピアス夫人 (春風ひとみ) は、歌う場面こそ少ないが、優雅な立ち居振る舞いが上流階級を取り仕切る家政婦を演じていて、見事。イライザの父親役の今井清隆は、その道化振りと歌唱力で会場を沸かせた。
 「だったらいいな」(Wouldn’t It Be Loverly)、「運がよけりゃ」(With a Little Bit of Luck)、「日向のひなげし」(The Rain in Spain)、「じっとしていられない」(I Could Have Danced All Night)、「君住む街で」(On the Street Where You Live)、「私に見せて」(Show Me)、「教会へは遅れずに」 (Get Me to the Church on Time) 、「頭から離れない」(I’ve Grown Accustomed to Her Face) 等々、フレデリック・ロウ作曲、アラン・ジェイ・ラーナー作詞、G2訳詞のミューシーカル・ナンバーが楽しく、出演者全員の演技力、歌唱力はいずれも見事で、カーテンコールは鳴りやまらない見応えのある舞台だった。

写真提供: 東宝演劇部