ミュージック・ペンクラブ・ジャパン
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エッセイ

最新号

アントン・ブルックナー生誕200年に際して

石田一志(当会理事 クラシック)

 

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アントン・ブルックナー
(1824.9.4.~1896.10.11.)
 後期ロマン派と20世紀現代音楽の間の存在としてブルックナーの業績をどのように捉えるかという課題が与えられました。つまり業績の歴史的な評価ということです。
 歴史的な位置づけで言えば、ブルックナーはベートーヴェン以後の最初の偉大な交響曲の作曲家と呼ぶのが一番常識的で適切だと思います。しかも、ベートーヴェンの第9交響曲の構想と理念を言葉を伴わない純音楽として独自に展開したといえます。その点はブラームスを含む同時代の擬古典的な交響曲と違います。その音楽は時代を超越した深い信仰心の賜物でした。その荘厳な響きが表出する逞しい単純性と高次な精神性といった特色は、同時代の他の作曲家たちの関心とは異なった次元にあります。
 従ってブルックナー開始とされる自然・原初動機法、ブルックナー休止、ブルックナー・ユニゾン、ブルックナー・リズムと呼ばれる独自の内的リズム、ブルックナー・ゼクエンツといった書法上の特徴やその大胆な和声や旋律動機も真似ること陳腐です。
 20世紀後半の現代音楽のなかであえていえば、メシアン、ペルト、カンチェッリといった信仰や宗教的なメッセージをもった作曲家たちの音楽のなかに、単純性と精神性の新しい荘厳な響きを聴くことができるかと思います。とくに、交響曲を7番まで書いたジョージア(グルジア)のギヤ・カンチェリの強烈なテラス型強弱法はブルックナー風といえます。
 
 ところで、今年は生誕200年ですが生誕100年の1924年の頃、オーストリアとドイツの各地にブルックナー協会が誕生しました。敗戦の両帝国では、過去と手を切った新音楽が台頭するわけですが、その一方、積極的に過去を大事に見直す運動も起こりました。その内のライプツィヒで1925年に設立されたブルックナー協会が本拠をウィーンに移して29年2月に国際ブルックナー協会となり、さらに翌30年からブルックナーの自筆譜が遺贈されていたオーストリア国立図書館と共同事業として批判校訂版の刊行を始めました。この全集の編集主幹となったのが、当時同図書館の音楽部門の責任者であった音楽学者で、初代会長のロベルト・ハースでした。校訂の協力者にアルフレット・オーレルやレオポルト・ノヴァークがいました。そして演奏協力者となったのがワーグナーの姪を母とする、オーストリアの作曲家ジークムント・フォン・ハウゼッガーでした。ハウゼッガーは、当時、首席指揮者を務めていたミュンヘン・フィルを振って、この協会版を使って交響曲第9番を1932年4月に、第5番を35年10月に、第4番を36年1月に世界初演を果たし、作品のイメージを一新することに成功したといわれています。
 ちょうど協会版の第9番の初演の3か月後の32年7月の総選挙で、ナチスは第1党となり、翌33年1月、ヒトラーが首相に任命されます。そしてヒトラーはすぐに議会を解散し、瞬く間にナチスの独裁体制を確立します。つまり、第5番、第4番の初演はこの第3帝国に入ってからのことだったのです。
 実は、ヒトラーはワーグナーの歌劇や楽劇だけでなく、ブルックナーの交響曲も深く愛していました。第3帝国ではブルックナーは尊重され、1935年にはベルリン帝国ラジオ局で彼の全交響曲が放送されたほどです。
 そしてヒトラーは、オーストリア併合に先立つ37年6月6日に、バイエルンのレーゲンスブルク近郊に聳えるヴァルハラ神殿でのブルックナーの胸像の除幕式を党を挙げて大々的に決行します。この時には、当然のようにフォン・ハウゼッガー率いるミュンヘン・フィルが演奏に参加しています。曲は交響曲第8番の緩徐楽章だったそうです。
 このアテネのパルテノン神殿そっくりの白亜の神殿は、バイエルン国王ルートヴィヒ1世がドイツ史とその偉人たちの為に皇太子時代から構想して1842年に完成したものです。肖像資料のないプレートだけの伝説上の人物も含まれますが、資料のある偉人達は胸像が製作されました。範囲は「ドイツ語を話すゲルマン人」という選定なので、ドイツ以外の地も含まれ、範囲は広く現在では200近い胸像がおさめられています。当初、全体が100体未満だったころ、含まれていた音楽家はベートーヴェン、グルック、ヘンデル、ハイドン、モーツァルトに限られていました。その後、追加があり音楽家では1913年に没後30年目のワーグナー、遅れて1916年にJ.S.バッハ、28年にシューベルト、37年にブルックナー、48年にレーガー、73年にR.シュトラウス、78年にウェーバー、そして2000年にはブラームスが並びました。バッハやシューベルトよりもワーグナーが先だったのは、ルートヴィヒ1世の孫が例の狂王ルートヴィヒ2世だから、その縁でしょう。
 明らかにナチのプロパガンダだった、この除幕式に国際ブルックナー協会役員のハウゼッガーが協力したことは、協会の内部分裂につながってしまいました。
 協会は創立10周年の1939年6月から7月にかけてリンツの聖フロリアンとウィーンで「大ドイツ・ブルックナー祭」を開催します。すでに、この時に「国際」ではなく単にドイツ・ブルックナー協会と名称を直しています。
 この時に新しい協会会長として記念講演をウィーンで行ったのがフルトヴェングラーです。その時の講演内容は彼の代表的な著作「音と言葉」に収められており、以前、レクラム文庫に入っていましたが、邦訳も2種類あって広く読まれているはずです。
 この中でフルトヴェングラーは、自分の指揮者活動がブルックナーの第9番で開始したことを最初の述べ、会長としてではなく、一音楽家の意見だとします。ハース版を賞賛する役割も果たしてもいますが、音楽的にはブルックナーの交響曲が時代も国家や民族も超えた真の「普遍妥当性」(Allegemeingultigkeit アッレゲマインギュルティッヒカイト)を備えていることを幾度も強調しています。
 まさに生誕二百年の現在の時代状況は、両次大戦間の100年前のブルックナー像あるいはブルックナーの音楽への対応のさまざまを、我々が抱いているブルックナー像と受容史的に比較したくなるものです。

「天上からの声」をオルガンのように〜
ブルックナー生誕200年

池田卓夫(当会理事 クラシック)

 

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ブルックナーが1848年ー1855年に
弾いていたザンクト・フローリアン
修道院のオルガン
 2024年はオーストリアの作曲家、アントン・ブルックナー(1824ー1896)の生誕200年に当たる。イスラエル出身の名ヴァイオリニスト、ピンカス・ズッカーマン(1948ー)が大オーケストラの指揮に進出して間もないころ、いきなりブルックナーの「交響曲第7番」を振るというので「随分、大胆ですね」と感想を漏らしたら「上がる音と下がる音しかないから簡単です」と驚くべき答えが返ってきた。だが今は、つくづく至言だと思う。

 最上の音楽は天界や自然界の響きができるだけ曇りなく真っ直ぐに、作曲家の霊感という触媒を介して地上の我々に届いた瞬間に現れる。まさにパイプオルガンのような図式であり、ブルックナーはJ・S・バッハとともに、最もオルガンに近い響きを自身の音楽に込めた作曲家だった。指揮者が「こねくり回す」ことなく、できるだけ素朴に表現して初めて、真価が伝わる音楽だろう。しかも執拗かつ数理的な反復では現代のミニマル・ミュージックの始祖を思わせるし、作曲当時は演奏至難あるいは非常識とされた奏法や調性の展開は「前衛」といって過言ではない。

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 12歳でザンクト・フローリアンの寄宿生となって以降、音楽と宗教の基盤を徹底して身につけたブルックナーは紆余曲折を経て教会音楽家の道を歩み、1860年代に入ってようやく交響曲の作曲を始めた。1868年にウィーン音楽院の教授に就き、1875年からはウィーン大学でも音楽理論を教えたが、ウィーン近郊クロスターノイブルク修道院のオルガニストは亡くなる直前まで続けた。最後は宮廷オルガニストの称号を授かり、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世からベルヴェデーレ内の宮廷職員用住居を賜与され、そこで亡くなった(写真)

 ウィーン時代のブルックナーは自分とは異なる音楽観を持った生徒たちにとっても良い教師&理解者であり、その1人、グスタフ・マーラー(1860ー1911)にドイツ=オーストリア系交響曲の歴史のバトンを渡した。マーラーはウィーンの楽譜出版社ウニヴェルサルがブルックナーの死後にまとまった楽譜(エディション)を出版する際、資金の一部にと、自身の印税を差し出した。また、ブラームスに作品を酷評されたことを引き金に精神を病み、夭折したハンス・ロット(1858ー1884)の才能も早くから正しく見抜いていた。

 存命当時のウィーンで「ワーグナー派」対「ブラームス派」の争いに巻き込まれてとばっちりを受けたり、あまりに用心深い性格で他人の意見にも左右されながら自作の校訂を繰り返したり…で、ブルックナーの評価はなかなか定まらなかった。お膝下のウィーン・フィルがデッカ(ユニバーサル)で最初に完成したブルックナー全集も、6人の指揮者(第1番=クラウディオ・アバド、第2&6番=ホルスト・シュタイン、第3&4番=カール・ベーム、第5番=ロリン・マゼール、第7&8番=ゲオルク・ショルティ、第9番=ズービン・メータ)による1965~1974年の録音の寄せ集めだった。1人の指揮者と1つのオーケストラの組み合わせで「交響曲全集(とりあえず第1ー9番)」の録音が現れたのはようやく1970年代で、オイゲン・ヨッフム指揮シュターツカペレ・ドレスデン(EMI→ワーナー)、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィル(DG=ユニバーサル)、朝比奈隆指揮大阪フィル(ジャンジャン)あたりが先駆けだ。ウィーン・フィルが「00番」「0番」の〝番外〟2曲を加えた11曲の全集をクリスティアン・ティーレマンの指揮で完成したのは2023年の最新ニュースであり、さらに続く再評価の象徴といえる。

(いけだ・たくお=音楽ジャーナリスト)

ASKAという歌手が持つ再生の力(「WHO is ASKA!?」を拝見して)

久道りょう

大阪オリックス劇場で開催されたASKAさんのライブ「WHO is ASKA」を拝見した。 そこから感じるものを書きたいと思う。

私はASKAのライブも生歌も今回が初めての経験だった。
彼がCHAGE&ASKAとして活躍していた1990年前後から2000年にかけては、私は子育ての真最中で、それほど多くの楽曲を知らない。
そんな私でも、この日のライブは、知っている曲やどこかで耳にした記憶のある楽曲が多く、楽しむことが出来た
全体としては、非常にクオリティーの高いライブだったと感じる。

その中でも特に印象に残ったのは、サウンドの美しさだ。
仕事柄、年間を通して、多くのJ-POPのライブに出かけるが、ハッキリ言って、ドラムとエレキギターの突き刺さるような音に、クラシック畑出身の私はときおり疲れてしまうことがある。
しかし、ASKAのライブは全く違った。
とにかく「音」が綺麗なのだ。
もちろん、J-POPなのだから、エレキもドラムも使っている。
だが、全体のサウンドのバランス、そして歌との一体感。さらには、個々の奏者のテクニックの高さは素晴らしかったと言える。
中でも、今回、ASKAが直接交渉してライブに参加して貰ったというサックス奏者のDavid Negrete。ライブではサックスだけでなく、フルートなど他の楽器も吹き、多彩な才能を発揮している。
彼は、昨年、ASKAが敬愛してやまない世界的音楽プロデューサーのデイヴィッド・フォスターと共演した時にメンバーにいたとのことで、その美しい音色に魅了されたASKAが自分のツアーに参加するように交渉したとのこと。非常に美しい音色を奏でていて、『You are free』だったかのASKAとの歌声の掛け合いでは、魅力的なサウンドになっていたのが印象的だった。
また、映像音声で参加のストリングスの音色がさらにライブのサウンドを重厚なものにしていたように感じる。
これは、ASKAのライブでは恒例のことなのか、初参加の私には知り得ないことだが、とにかくどの楽器も非常に音色が綺麗で、サウンドのバランスが素晴らしく、いわゆるJ-POPのライブで感じる爆音のストレスを全く感じなかった。
これが、印象に残ったことだったと言える。
そして、ボーカルの重なり合い。
今回のライブに参加しているボーカリストは、結城安浩と高橋あず美。
このうち、高橋あず美は、彼女がアメリカの地下鉄でビヨンセの歌を歌っている動画を見たASKAが声をかけたとか。
力強い艶のある歌声は、声をかけられるだけあって、魅力的な歌声と言える。
普通、アーティストのライブに同行するバックコーラスのメンバーは、あくまでもアーティストをサポートする、というスタンスで歌っている場合が多い。しかし、今回のライブでは、ASKAを含めた3人のハーモニーが素晴らしかった。
ASKAの強靭な歌声に堂々と渡り合えるだけの声量と自分の音楽を奏でられるだけの表現力を2人ともが兼ね備えているように感じた。
もちろん、メインボーカルはASKAだが、そこに2人の歌声がしっかり重なりあって来ることによって、2人の歌声の存在感が半端なかった。
歌声の重なりが1つの線になったり、3つの線になったりする度に、ハーモニーの広がりと狭まりが感じられて立体的なサウンドになっていたからだ。
これには、2人が自由に自分の音楽を奏でられるように懐深く、彼らの歌をしっかり受け止めるだけの抱擁感がASKAにあることが大きな要因のように思える。
この懐の深さによって、安心して、2人は自分の音楽を奏でることが出来る。どんなふうに歌っても受け止めて貰えるという安心感が、さらに3人のハーモニーに厚みを与えていると感じさせた。
久しぶりに太い歌声の重なり合いによる「ハーモニーの醍醐味」というものを味わうことが出来た。

この日、生歌を初めて拝聴した ASKAの歌声は、私がイメージしていた歌声とは少し違って、太くハスキーさが目立つものだった。
しかし、66歳であれだけの声量とスタミナを持ち、3時間近くのライブを歌い通せる人は、そう多くはいない。
3時間近く歌った最終曲『On Your Mark』では細く綺麗な歌声を披露しており、精力的なステージを披露しても、ビクともしないタフさには驚く。
彼がいつまでもタフな歌い手でいるということがファンの気持ちを裏切らないのだろう。
「今日はなるべくたくさん歌いたいから」と言って、短いMCが中心だったライブ構成は、彼の「歌いたい」気持ちと「歌」への強い執着を感じさせた。

途中、客席が明るくなり、彼のライブでは恒例?の「休憩時間」
客席には、「ちょっと休憩。トイレに行ってもいいよ」とかなんとか彼は軽口を叩きながら、客席に背を向けてステージの上に座り込み、バンドメンバーと雑談に耽っている、という何とも奇抜?な休憩時間。
時折、ファンから大声で話しかけられるのに応対しながら、和気藹々と休憩時間は進んでいく。
このような気さくな一面もファンには堪らないのかもしれない。

今回、彼への掛け声が多かった。また、客席は、男女比が均等に近く、さらに年齢層も多岐に亘っており、案外、若い世代の男女の姿も多く見られた。
それらは、彼の秀逸な楽曲が年代を超えて支持されていることの証のようにも思えた。
過去には、覚醒剤使用という出来事があり、多くの人の記憶に残っているものだが、それ以降も彼は一貫して「音楽」というものと「歌」というものから離れず、自分の道を貫き通している。
覚醒剤や大麻というものは、音楽の世界と切り離せないことの多い案件とも言えるが、なぜ、彼らがそういうものに手を出してしまうのだろうかと考えたとき、それだけ、「音楽」というものを突き詰めていく作業は孤独で精神を病むことと隣り合わせである、とも言えるのだ。
私も若い頃、自分の歌や音楽というものを突き詰めていくと、どうしても「自分」というものと向き合わなければならず、その作業は孤独で、さらに自分を追い込んでいくものだったという体験は記憶にある。
特に彼のように、芸能界で活躍していく人達は、多忙なスケジュールの中、次々、新曲を作り出していかなければならず、結果を求められることのプレッシャーは半端ないものだろう。
世界的に見ても、欧米やK-POPに限らず、若いアーティストの突然死は珍しくなく、それだけ彼らは、常に、精神を病んでしまうか、そこから逃げ出す手段に薬物に手を出してしまうか、という取捨選択を迫られる環境にいるのかもしれない。
それだけ、「音楽」というものは、人間を癒すと同時に、自分と向き合う精神的な強さを要求するものとも感じるのだ。
今回、彼のライブからは、そのような出来事があっても、音楽というものを決して手放さず、自分のサウンドの世界というものを追求し、コツコツと積み上げて行くなら、必ず、それを見守り続けてくれる人達がいる、ということを証明するような多くのファンの存在を感じさせた。
満員の客席から、年代、男女を問わず、彼に声援を送る会場の雰囲気は、非常に暖かく、如何に「ASKA 」というアーティストの再生を信じ、待ち続けてきたファンが多かったかということを証明している。
仮に道を踏み外すことがあっても、また、人は「音楽」に救われるのだ、ということを改めて思った。

今回のライブツアーは、国内の後には、アジアツアーが組まれているという。
「なかなか中国には行けないが、韓国に行くから意味がある」と話した彼の言葉からは、「音楽」というものを通して、世界平和への願いが込められているように感じる。

「音楽は言語だけではないから」と話した彼の言葉。

そこには、音楽の持つ国境を超えていく力というものを信じる彼の姿があるように思う。
最近、80年代、90年代のJ-POPの人気が大ブレイクしていると言われる韓国で行われるライブでは、彼の楽曲がきっと多くの人を魅了していくことだろう。
彼の歌が、J-POPを通して日本の良さを多くの人に伝えて行くことを願っている。

◆物故者(音楽関連)敬称略

まとめ:上柴とおる

【2024年9月下旬~2024年10月下旬までの判明分】

・9/24:キャサリン・ヴァニース・グローヴァ―(元プリンスのバック・ダンサー&ラッパー。愛称「キャット」)60歳
・9/26:ジョン・アシュトン(米俳優。「ビバリーヒルズ・コップ」など)76歳
・9/27:マギー・スミス(英俳優。「ハリー・ポッター」シリーズなど。アカデミー賞2回、エミー賞4回受賞)89歳
・9/28:クリス・クリストファーソン(米シンガー・ソング・ライター。俳優)88歳
・9/30:デイヴ・アリソン(アンヴィル初期のギタリスト)68歳
・9/30:大山のぶ代(声優。「ドラえもん」など。歌手)90歳
・10/02:ローレンス・ダニエルズ(日本で活動中のベーシスト。平井堅、倖田來未、JUJU、Chemistry、安室奈美恵、TEAM RYUJIなど)62歳
・10/04:猪俣猛(ジャズ・ドラマー)88歳
・10/05:白井佳夫(映画評論家。元「キネマ旬報」編集長)92歳
・10/07:シシー・ヒューストン(米R&B~ゴスペル・シンガー。元スウィート・インスピレイションズ。故ホイットニー・ヒューストンの母)91歳
 ★「私がシシー・ヒューストンのグループを知った時、娘のホイットニーはまだ幼児でした」
 https://merurido.jp/magazine.php?magid=00012&msgid=00012-1728391883
・10/09:レイフ・セーゲルスタム(フィンランドの指揮者。作曲家。「読売日本交響楽団」でも指揮)80歳
・10/13:リビー・タイタス(米シンガー・ソング・ライター)77歳
・10/16:リアム・ペイン(ワン・ダイレクションのメンバー)31歳
・10/17:西田敏行(俳優。歌手)76歳
・10/18:木村昇(ハーリー木村。歌手。「ルパン三世」「ウルトラマン80」の主題歌など。作曲家としても海援隊「JODAN JODAN」など多数担当)72歳
・10/21:ポール・ディアノ(元アイアン・メイデンのシンガー)66歳
・10/22:リンダ・オブスト(米映画プロデューサー。「めぐり逢えたら」「インターステラー」など。「フラッシュダンス」の脚本開発も)74歳
・10/25:フィル・レッシュ(グライトフル・デッドの創設メンバー。ベーシスト)84歳