ミュージック・ペンクラブ・ジャパン
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エッセイ

最新号

トニー・ベネットの逝去を悼む

鈴木道子

 「シンガーズ・シンガー」、「歌手の中の歌手」といわれ、フランク・シナトラから「僕が金を払っても聞きたいのは、トニー・ベネットだ」と絶賛されたトニーが7月21日、帰らぬ人となった。96歳だった。
 私がトニーを最も身近かに感じたのは、アメリカ滞在からの帰り道、初めてサンフランシスコを訪れたときだった。海辺から、わぁっと白い霧が街頭に流れ、一瞬その中に包まれてしまう。ああ、あの歌の通りだと思った。1962年の夏、丁度トニーが歌った「霧のサンフランシスコ」略して「霧サン」の愛称でも知られる「わが心のサンフランシスコ」が大ヒットしている最中だった。決して派手ではないトニーの歌声は、やや哀愁をふくんで、なにか懐かしさで一杯だった。それ以前にも彼は「ビコーズ・オブ・ユー」「ラグス・トゥ・リッチズ」のヒットを飛ばしていたが、この時ほどトニーと「霧サン」を身近に感じたことはなかった。名曲、名唱。とはいってもこの歌は1950年代に作られ、見捨てられたままだったのをトニーが歌って蘇らせ、今ではシスコの市歌となっている。トニー・ベネットの名唱あってのことだった。彼はこの歌でグラミー賞最優秀男性歌手賞を受賞した。
 本名アントニオ・ドミニク・ベネディットは1926年8月3日、ニューヨークのクイーンズにイタリア系移民の食料品店の息子として生まれた。マンハッタンの美術工芸高校を卒業して、18歳で徴兵。第二次世界大戦ではドイツ戦線へ。終戦後はアーミー・バンドのシンガーとなったが、除隊してアメリカン・シアター・ウィングへ入学。演技と歌唱を正式に学んだ。
 1950年にコロムビア・レコード契約できたのは、パール・ベイリーの推薦による。トニーがグリニッジ・インに出演していた時に、彼女に見い出されてショウに参加。その後ボブ・ホープにも気に入られて世界ツアーに参加したが、それまでジョー・バリの芸名で出ていたのを、本名に近いトニー・ベネットと命名したのはボブ・ホープだった。
 1951年「ビコーズ・オブ・ユー」をリリース。これがNo.1ヒットとなり、いきなりスターの仲間入りを果たした。「夢破れし並木道」「ラグス・トゥ・リッチズ」などミリオンセラーを続発して滑り出しは順調だったが、ロックン・ロール時代に突入すると一変した。トニーのような正統派の伝統を受け継いだポピュラー歌手はさっぱり仕事がなくなってしまった。このつらい時代を、彼は絵を描いてしのいだ。トニーのポートレートは定評があった。後に自分のギャラリーをもって個展も開いているが、スミソニアン美術館や国連初め、トニーの絵を永久所蔵しているところは沢山ある。また、彼はリベラル派で、公民権運動が盛んだった時代には、キング牧師と一緒に、あの有名なセルマの行進に参加していた。
 70年代から『トニー・ベネット&ビル・エヴァンス』はじめジャズの名盤を出しているように、トニーはポピュラー・シンガーだけではなかった。カウント・ベイシーやバディ・リッチなどジャズのビッグ・バンドとの共演でも定評があったが、まだ若い頃、ヴォーカル・ティーチャーのミミ・スピアから、他の歌手の真似をしてはいけません。カウント・ベイシーやジョン・コルトレーン、スタン・ゲッツなど、ジャズを良く聞いて勉強しなさいと教えられたことが、トニーの歌唱に少なからず影響している。
 謹厳実直そうにみえるトニーだが、一時コカイン中毒になったこともあり、1980年代はやや不調だったが、息子ダニーがマネージャーとなって立て直して復活。1994年MTVの『アンプラグド』にライヴ出演して第一線にカムバックした。
 2006年秋、私はトニーの80歳誕生記念コンサートがあるというので、ロサンジェルスへ出掛けて行った。高齢だから最高の歌声が聞ける最後かもしれないと思ってのことだった。そしてトニーは存分に歌いまくってくれるだろうと。ところが次々にゲストが出てきてはトニーにお祝いを言って歌って、はい次、といった感じで、なかなか彼は歌ってくれない。ちょっといらついていたが、最後は彼がしめてくれた。やっとトニーの出番となり、ヒット曲などに聞きほれているうちに、突然マイクをはずして「霧サン」を歌い出した。その朗々たる歌声はコダック・シアターの隅々まで響き渡り、天井が吹き飛んでしまうくらいに共鳴。素晴らしい声量に圧倒されてしまった。予期せぬ強烈な印象だった。本当に来て良かったと思った。
 80歳記念としては、名盤『デュエッツ:アメリカン・クラシック』をリリース。バーブラ・ストライザンド、エルトン・ジョン、ポール・マッカートニー、スティング、マイケル・ブーブレはじめきら星の陣容で大ヒットし、グラミー賞受賞。以来デュエット・アルバムの名盤が続く。人気もトニーもドンドン若返っていった。お気に入りのレディー・ガガとの『チーク・トゥ・チーク』は全米初登場1位となり最年長記録を達成(88歳)。更に『ラヴ・フォー・セール』はトニー95歳。グラミー賞は勿論、ギネスブックの最年長記録にも載った。グラミー賞19個。ビルボード誌のセンチュリー・アワード。ヒューマニストであるトニーは慈善団体を立ち上げたり人権、平和にも尽力して国連から「Citizen of the World」栄誉賞を受賞している。
 トニーは2016年あたりからアルツハイマーの兆候が出てきたが、回りの人々の暖かさに支えられて、名盤を仕上げていった。
 彼の来日コンサートは1968年が最初だが、87歳の時の来日記者会見で、トニーは最近になって改めてベルカント唱法のヴォイス・トレーニングを受けたことを語っていた。その結果、以前よりよく声が出るようになったと。事実80代半ば過ぎてからのトニーは、若い時よりのびやかでつやのあるいい響きが声に加わったように思う。そして人の名前や歌詞は忘れてしまっても、最後まで歌うことと絵を描くことを楽しんでいた。

藤井風『Workin’Hard』に見るタンギングの同化

久道りょう

 藤井風の新曲『Workin’Hard』を聴いた。
 彼の楽曲の特徴の1つである日本語と英語の混在した歌詞がこの曲でもふんだんに使われている。

 グローバルな彼のファン層や活動を十分に意識したものだろう。
しかし、今回の楽曲は、従来の彼の楽曲よりも、さらに日本語と英語という区別がなく1つのライン上に乗る音の粒のように聴こえる。

 言語というよりは、ことばそのものも音楽に同化してしまっているかのように、歌声も音楽を構成する1つの要素のような楽曲だ。

 特に感じたのは、彼のことばのタンギング。

 歌でいうところのタンギングとは、ことばの子音のアタック(歌い出し)のことを言う。

 即ち、ことば1つ1つの発音をするときの子音の発音がどのようになっているかということで、子音のアタックが鋭い人はタンギングが鋭く、緩い人はタンギングが甘い、と感じる。

 日本語は子音と母音の組み合わせによって発音するというよりは、文字そのものを1つの音として捉えて幼少時より耳に刷り込まれている。
 欧米などの言語は(もちろん例外もあるが)必ず、子音と母音の組み合わせによって出来ているものだが、日本語の場合は、その文字一音の発音として認識している人が多いのである。それは「ひらがな」によってことばが認識されているからとも感じる。
 例えば、「か」という発音があれば、子音のK音と母音のA音の組み合わせによる「KA」というものとして捉えるのではなく、あくまでも「か」という文字の音として多くの人は認識している。

 日本語はことばそのものに強弱も緩急もない、いわゆるリズムというものを持たない為に、タンギングが甘い(弱い)と、歌の場合、ことばが流れて、音楽のリズムの刻み方によっては何を歌っているかわかりにくい、という現象を生みやすい。その為、最近のJ-POPでは逆にことば数を多くして、曲のリズムとメロディーに合わせるようにフレーズに嵌め込み、ことばに緩急や強弱を与えて歌うという手法が取られているものが多い。
 そういう形式になることで、ことばは1つの音節として捉えられ、単語ごとの発音として認識されるからである。しかし、藤井風の音楽には、そういう細工はない。

 鷹揚とした音楽の流れの中で、1つ1つのことばが立っていく、という歌い方をしている。
 それは、彼の日本語のタンギングの鋭さが、ことばの存在を明確にリスナーに伝えてくるからだ。
 比較的、ゆったりしたメロディーの流れの中でも決してことばが流れていかないのは、彼の濃く厚みを持った歌声の響きにことばが乗せられると、ことば全体が丸みを帯びた塊になって届いてくるからに他ならない。
 だから、これまで、彼の歌は日本語のタンギングが明確という印象を持ってきた。

 ところが、今回の新曲『Workin’Hard』では、非常にことばが曖昧である。
日本語の歌詞と英語の歌詞が混在する中で、彼の日本語のタンギングは曖昧になり、音に同化しているのだ。
 彼特有の幅のあるソフトな響きの中にことばが隠れて音の帯として流れてくる。時折り、鋭いタンギングによってことばが立ち上がっては、又、彼の幅広い歌声の帯の中に隠れていく。まるで音の帯に同化したかのように。

 そして、同化したことばは、音の1つとなって楽曲を構成している。その曖昧さが心地よく聴こえるのは、彼の歌声がことば全体を包み込むからだろう。

 彼の音楽のスケールの中では、英語も日本語も全て1つのものとなって同化する。

 アジアツアーを終えて、彼の中では、さらに日本語と多言語の境界線を無くすような感覚があるのかもしれない。
 そんな印象を持った。

◆物故者(音楽関連)敬称略

まとめ:上柴とおる

【2023年7月26日~2023年8月25日までの判明分】

・6/22:高橋城(作曲家。「宝塚歌劇団」の舞台音楽など)84歳・7/24:レニー・アンドラーヂ(ブラジル出身の歌手。ジャズ・サンバの女帝)80歳・7/26:シネイド・オコナー(アイルランドのシンガー・ソング・ライター)56歳・7/26:ランディ・マイズナー(米ベーシスト。ポコ~ストーン・キャニオン・バンド~イーグルス~マイズナー・スワン・アンド・リッチなど)77歳・7/29:白田“RUDEE”一秀(ロック・ギタリスト。RAJAS、PRESENCE、GRAND SLAM、DAIDA LAIDA等)60歳・8/01:青木賢児(元NHK交響楽団理事長、元宮崎国際音楽祭総監督)90歳・8/04:ジョン・ゴスリング(キーボード奏者。元キンクス=1970年~1978年)75歳・8/05:ISSAY(DER ZIBETのヴォーカル)61歳・8/09:ジェイミー・リード(英グラフィック・デザイナー。セックス・ピストルズなどのビジュアルデザインも担当)76歳・8/09:ロビー・ロバートソン(ザ・バンドのギタリスト)80歳・8/13:クラレンス・アヴァント(米ブラック・ミュージック界の‘ゴッドファーザー’。プロデューサー、マネジャー、プロモーターを歴任。サセックス・レコードやタブー・レコードを創設。元モータウン会長。ドキュメンタリー映画「ブラック・ゴッドファーザー: クラレンス・アヴァントの軌跡」2019年)92歳・8/13:野中規雄(元CBS・ソニー洋楽ディレクター。チープ・トリック、エアロスミス、ザ・クラッシュ等を担当)75歳・8/15:飯守泰次郎(指揮者。日本のワーグナー演奏史に大きな足跡。新国立劇場オペラ芸術監督。日本芸術院賞。紫綬褒章、文化功労者)82歳・8/16:ジェリー・モス(1962年、ハーブ・アルパートと共にA&Mレコードを創立。1994年、再びハーブ・アルパートと共にAlmoサウンズを創立)88歳・8/16:レナータ・スコット(イタリアのソプラノ歌手)89歳・8/17:ボビー・イーライ(米プロデューサー。作・編曲家。フィラデルフィア・ソウルのセッション・ミュージシャンとしても活躍。MFSB創立メンバー)77歳・8/18:レイ・ヒルデブランド(‘ポール&ポーラ’のポール)82歳・8/20:土屋邦雄(ビオラ奏者。NHK交響楽団。日本人初のベルリン・フィル団員)89歳

★2023年8月22日付ブログ「恋人同士ではなかったポールとポーラ」
https://merurido.jp/magazine.php?magid=00012&msgid=00012-1692710200