ミュージック・ペンクラブ・ジャパン
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追悼 青澤唯夫会員

2008年(平成20年)から2009年(平成21年)まで第15代会長を務められました、青澤唯夫会員が逝去されました。享年80歳。謹んでご冥福をお祈りいたします。
故人の功績と人柄を偲び、三部門から追悼の言葉が寄せられました。ここに掲載いたします。

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「ショパンへの愛を見事に貫徹させた生涯」

石田一志(クラシック ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会長)

 青澤隆明さんの御尊父青澤唯夫さんがお亡くなりになった。日本の洋楽界も演奏関係ではすでに2代目、3代目は少しも珍しくはないが、評論関係はまだ少ないし、まして親子そろって我々のミュージック・ペンクラブの重要メンバーという例はこれまでのところ青澤父子だけだった。
 80年代から運営委員会でご一緒したが、当時の唯夫さんはピアノ音楽関係をご専門にし、とくに演奏会批評の活動では新人や若手を含めてピアノの演奏会を一手に引き受けられている印象であった。当時の評論には『ショパン―優雅なる激情』(88)、『名ピアニストの世界』(91)がある。唯夫さんはその後、90年代半ばを札幌で過ごされた。その頃、一挙に守備範囲が広がったような印象がある。多分、この出張の地で、発足間もないPMF国際音楽祭や意欲的なプログラム・ビルディングの札幌交響楽団から良い刺激を受けられたのであろう。
 そして、その成果を東京に戻ってから『名指揮者との対話』(04)に著された。この著作は第17回ミュージック・ペンクラブ賞クラシック部門賞に輝いた。また運営委員に復帰された唯夫さんは08年には会長に推薦された。
 その後、オーディオ評論家でやはり会長を務められた貝山知弘さんとの共著『鳴らす力聴く力』(16)によって、唯夫さんは第29回ミュージック・ペンクラブ賞オーディオ部門賞も受賞されている。貝山さん共々、お二人はクラシック、ポピュラー、オーディオの会員間の交流の促進を図っている当クラブの良き例を示されたといえよう。
 長いお付き合いではあったがあまり私的な会話を交わした記憶はないが、ただ一度、小学生のころに「ショパンのピアノ曲にはピアノの音そのものの美しさを発見するために書かれているようなところがある」と作文に書いて、教頭先生に褒められたと伺ったことがある。活動の幅を広げて行かれはしたが、やはり『ショパンを弾く』(09)、『ショパン その生涯』(10)、『ショパン その全作品』(12)と、ショパンが唯夫さんのライフワークであって、早熟の小学生時代からそれは見事に貫徹なさった。評論活動の新展開という次の課題は、後継者の隆明さんに託された。

合掌

2022年9月30日
一般社団法人 ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会長
石田一志

「青澤唯夫先生を偲んで」

三塚 博(ポピュラー)

 青澤唯夫先生ご逝去の一報に触れたとき最初に脳裏に浮かんだ姿は、真摯な眼差し、柔らかい表情、そしてしなやかな物腰でした。
 先生は平成20年から二年間当会の会長を務められました。当時はまだ任意団体でしたが、現在の理事会にあたる運営委員会がJR新大久保駅に程近いマンションの会議室で毎月開催されていました。音楽界を取り巻く環境が著しく変化していく時期で当会も少なからぬ影響を受けていた頃です。
 会長として難しい舵取りを求められていただけに、各委員からの発言にはことのほか熱心に耳を傾けておられたのが印象的でした。新米の運営委員であった私は、青澤会長の一言ふたことにただ耳を澄ますばかりでした。
 専門分野は異なりましたが、委員会終了後にはジャンルを超えて親しく接していただきました。いつでしたか、東京駅のエスカレーターに乗った先生とすれ違いました。鎌倉の自宅に戻られる時だったのでしょうか。ちょっぴり頬に赤味がさしてしました。下りエスカレーターの私に気付いてくださり、満面の笑みを浮べて手を振ってくださったのを今もはっきりと記憶しています。
 他人との接し方、触れ合い方を大いに学ばせていただきました。先生のご功績を偲びつつ哀悼の意を表します。

「柔和で厳しいほんものの知性の人」

大橋伸太郎(オーディオ)

 ピアノ、音楽、そして芸術すべてを愛した人生だった。ことしの春先に体調が悪化したようだが、奥様の談では、それまではご自宅のグランドピアノにしばしば向かっておられたそうだ。お元気な折りは、コンサートピアニストの知人がご自宅にしばしば遊びにこられた。
 「僕みたいなへっぽこが弾くとそれなりだけど、うまい人が弾くと、鳴り方が違うんですよ。」と目を細めて相好を崩されたが、いやどうして、ご本人のピアノの腕前は立派だった。若い時分はシャンソニエで伴奏のアルバイトをしていたらしい。語りが大切なシャンソンは鍵盤を緩急自在にあやつることができないと伴奏にならない。
 謙虚な分、他人の演奏に対しては厳しいところがあった。「この前、この人の演奏を聴きましたが…」と青澤さんの評価を訊ねると、平生はいつもニコニコとしている人から「大したピアニストではありませんね。」と冷淡な答が返ってきて思わず背筋が伸びたことがあった。
 マスコミがもてはやす新人ピアニストについての評価も慎重で、むやみにほめそやすことをしなかった。
 オーディオがお好きで、レイモンド・クックと親交があった縁で、イギリスのKEFのスピーカーに変わらぬ信頼を置いていた。MODEL105 をずっと愛用していたが、現代のKEFの音を、と所望されREFERENCE205/2をお世話したことがあった。国内メーカーはソニーがお好きだった。映像ディスク視聴用に同社のAVサラウンドアンプを紹介したこともあった。新しいものへの興味を失わない人だった。
 フランス近代音楽に造詣が深く、パイオニア株式会社のセミナーでドビュッシー生誕150年のセミナーにご出演いただいた。しかし、ライフワークは、フレデリック・ショパンだった。『ショパン−優雅なる激情』『ショパンその作品』『ショパンその生涯』は、ショパンの理解を志すなら必ずくぐらねばならない門のような労作である。
 奥様から、「(青澤は)モーツアルトが好きでした。」と聞いて少々意外だった。モーツアルトそしてシューベルトについて書く計画をたてていたという。しかし天はいましばらくの時間をお恵みにならず、敬愛する先人たちのいる彼岸の世界へと旅立った。青澤さんの古典派音楽論が読めなかったのは残念だが、後進たちへの「ボンヤリしていてどうする?おまえたちが書けよ!」という叱咤かもしれない。
 物腰の柔らかく、エレガントな紳士だったが、大衆的な所もあり、帰りの電車が同じなので、新橋での理事会の帰りに烏森神社境内の焼き鳥店で飲んだことがあった。座敷にあぐらをかいて焼き鳥をほおばる時の子供のような楽しげな表情が忘れられない。
 生涯をかけて芸術を真摯に愛した人、青澤唯夫さん。かけがえのない知性がまたひとり世を去った。