ミュージック・ペンクラブ・ジャパン
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追悼文:瀬川昌久先生を偲んで

高木信哉(ジャズ評論家)

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 昨年12月29日、ジャズ評論家の瀬川昌久先生が逝去されました。享年97歳でした。 幼少の頃よりシャンソン、ジャズ、映画音楽、ミュージカルの音楽に親しんでいた瀬川先生は、東京大学を卒業後、銀行に勤務。1950年代に銀行員としてニューヨークに赴任し、チャーリー・パーカーなど大物ジャズ・ミュージシャンの演奏に触れた事を機に、ジャズ評論を始めました。生涯現役として精力的に活動し、日本のジャズ、ミュージカルなどの発展に大きな功績を残されたことは周知の通りです。
 30年ほど前からジャズ評論を始めた私が、ジャズのコンサート、ライブ・ハウス、ジャズ・フェスティバルなどでよくお会いする評論家の先生が二人いました。岩浪洋三先生(1933年5月30日~2012年10月5日:享年79歳)と瀬川先生(1924年生まれ)です。本当に何度も何度もお会いしました。えっ?こんな遠くのライブまで観に来てるのと思ったことが何度もあります。お二人共、ライブを観続ける大切さを教えてくれました。岩浪先生と瀬川先生は、才能ある若手ミュージシャンを広く励ましていました。瀬川先生は、私に、ジャズの歴史について詳しく教えてくれました。そして、会う度に、「元気にしてますか。あなたの文章読んでるよ。頑張ってるな。あの〇〇の文章良かったですよ」と励ましてくれました。先生の温かいご指導や励ましに、感謝の気持ちでいっぱいです。
 とりわけ、瀬川先生のビッグバンドへの造詣の深さは、私に学ぶことの楽しさを教えてくれました。私はマイルス・デイヴィス(1926年~1991年:享年65歳)が大好きで、マイルスの『クールの誕生』(1949年)、『マイルス・アヘッド』(1957年)そして『スケッチ・オブ・スペイン』(1959年)などでアレンジャーを務めたギル・エヴァンス(1912年~1988年:享年75歳)に興味があり、深く知りたいと思っていました。しかし、その解が載っている書物を見つけることができませんでした。1970年代の話ですが、当時大学生だった私は偶然、神田神保町の古本屋で見つけた「スイングジャーナル」1960年8月号~10月号の中に、瀬川先生が執筆した、“不屈の芸術家ギル・エヴァンスの歩んだ道”を見つけました。それを読んで初めて、ギル・エヴァンスのことがよく理解できたのです。それは、クロード・ソーンヒル楽団の存在意義~エヴァンスの楽団への加入~脱退~マイルスの『クールの誕生』への協力~苦難の独習時代~マイルスとのコラボレーション~『マイルス・アヘッド』の成功とエヴァンスの功績を、広くかつ詳細に語ったものでした。さらに、ギル・エヴァンスの音楽上の特長が丹念に分析され、解説が加えられていました。私は、瀬川先生の評論家としての力量、ギル・エヴァンスへの敬愛の深さに感動しました。ある日、瀬川先生にお目にかかった折「私はギル・エヴァンスが大好きです。瀬川先生が書かれた論文をじっくり読みました。大変勉強になりました」とお伝えしたところ、それ以来、先生は私のことを気にかけてくれるようになりました。
 私にとって瀬川先生は、師であり、かけがえのない友人でした。特に、幼少時代からジャズを愛好していた瀬川先生のお話は、私にとって伝承のようでした。偶然ですが私も、幼少時代からジャズを愛好しています。幼い頃からジャズが大好き、と言う人には、瀬川先生以外にはひとりも会ったことがありません。先生は素晴らしいジャズの知識を持ち、曲名、作曲者、演奏者、曲の由来、観たライブなどを抜群の記憶力で覚えていました。
 先生から聞いたことを少し書きたいと思います。瀬川先生は1924年(大正13年)6月18日(水)生まれ。関東大震災(1923年9月1日)の翌年です。1926年(大正15年)~1927年(昭和2年)にかけて、お父さん(瀬川昌邦)の転勤に伴い、両親と英国のロンドンで暮らしました。先生が2~3歳のころの話になります。ロンドンの家には手回しの蓄音機があり、幼いながら毎日のようにレコードを掛けて聴いてました。そのレコードは、お父さんがパリで買ってきたフランスのシャンソン歌手のミスタンゲット(1873年~1956年:享年82歳)の「サ・セ・パリ」でした。当時、両親は仕事上の付き合いで夜も出かけることが多く、先生はひとり、レコードを掛けて、シャンソンやミュージカルの曲を聴いて楽しんでいたそうです。1950年(昭和25年)、昌久青年は、東京大学法学部を卒業して富士銀行に入行します。1953年(昭和28年)8月にニューヨークに転勤になり、翌1954年(昭和29年)4月まで滞在。その間、まず学校に通い、その後、ニューヨークの銀行で働きました。窓口業務もしたといいます。そして夜は自由時間。ある夜、昌久青年は、カーネギー・ホールで行われたスタン・ケントン(ピアニスト、1911年~1979年:享年67歳)楽団のコンサートを観に行き、ここで、チャーリー・パーカー(1920年~1955年:享年34歳)の生演奏を聴いたのです。先生が29歳の時でした。コンサートの途中、バド・パウエル・トリオが登場。そこに、チャーリー・パーカー(当時32歳)とディジー・ガレスピー(当時35歳)が交互に出てきて、それぞれ得意のバップ・ナンバーを演奏しました。素晴らしいチャーリー・パーカーの演奏を聴いたこの時の感激を、先生は生涯、昨日のことのように覚えていました。このコンサートにはビリー・ホリデイ(1915年~1959年:享年44歳)も出演。大変貴重な体験をしたのです。私にとって先生は、チャーリー・パーカーの生演奏とビリー・ホリデイの生歌を聴いたことがある唯一の人でした。先生は更に、デューク・エリントン楽団をパラマウント劇場で聴き、アート・ブレイキーとクリフォード・ブラウンのコンボをバードランドで聴いたのです。伝説のミュージシャンばかりで、驚くばかりです。その後、昌久青年は、一旦帰国します。そして、1956年(昭和31年)~1958年(昭和33年)、再びニューヨークに駐在しました。このときのミッションは、富士銀行のニューヨーク支店を開設して、軌道に乗せよということでした。昼間は一生懸命働き、夜や週末はジャズのライブを聴いたり、ミュージカルや映画を観たり、忙しくも充実した日々を過ごしたのです。
 帰国後、ジャズ、ミュージカルなどの評論を本格的に開始し、ジャズ雑誌などにレビュー、批評等、無数の寄稿をされました。また、ジャズ(音楽)の講座、コンサートの企画、プロデュースなども多数行いました。また、月刊誌『ミュージカル』編集人、社団法人日本ポピュラー音楽協会名誉会長を務められました。2015年(平成27年)には、瀬川先生は、永年に渡るジャズ音楽とミュージカルの普及活動の功績により、文化庁長官表彰を受賞されました(小泉清子、八千草薫に次ぐ史上3人目の栄誉です)。また、瀬川先生は、2013(平成25年度)年度のミュージック・ペンクラブ音楽賞の特別功労賞を受賞されました。
 このように、瀬川先生の生涯には、いつも素敵な音楽がありました
改めてご冥福をお祈り申し上げます。瀬川先生、どうもありがとうございました。