2017年11月 

  

歌姫、エイミー・ワインハウスの「狂った夏」・・・・・池野 徹
 近年日本は宝くじが年中行われている。異様なCFが繰り返され、人々の心を揺さぶる。年末は10億円にもなる。実際に宝くじに当たった人は、いるのだろうか、普通の人が、10億円を当てたらどうなるだろうか。狂喜乱舞いきなりとんでもない世界へ引きずり込まれて、人間性を失ったりする状態におかれるだろう。

 エンターテインメント世界、特に、歌手の世界では、この「宝くじ」状態が突如としてやって来る。勿論違うのは、棚からぼたもち式ではなく、その歌手の実力があって、認められその曲が突如として世界的な大ヒットとなり、目的の受賞までして、ミリオン族に変わるのである。マドンナが、「Like A Virgin」1曲で、世界のスターになったし、現在は、レディ・ガガ等がその典型である。

 異様と言えばSNS時代になり見れなかったものが目の前で見ることができる。「You Tube」というアプリケーションで名のある歌手たちの威勢を誇ったライヴがもちろん映像としてだが見ることができる。またそれをウオッチングする人が何百万人にも達したりする。けっこうその歌手たちの表現が生ライヴでは見れなかった感性が発見できる。そしてくぎずけになった歌手に出会ってしまった。エイミー・ワインハウスである。

 英国の歌手エイミー・ワインハウスが2011年7月23日亡くなった。薬物とアルコール過多に寄るものと言われている。奇しくも27歳だった。27歳で逝った、ブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソンそして、1994年のカート・コベイン以来、2000年代の死の同期生となってしまった。

 エイミー・ワインハウスは、2008年の第50回グラミー賞で、5部門で受賞して世間を驚かした。受賞曲は「Rehab」と云い、アルコール中毒のリハビリ中に創った体験を歌った曲で、なんと、グラミー賞にもアメリカ入国が認められなかったいわくつきで、当時話題を呼んだ。その2006年のアルバム「Back To Black」は、リバイバルミリオンヒットになる。しかし、エイミーの歌声は、ソウルフルで、ビリー・ホリディを彷彿させる、ハスキーヴォイスに魅力があった。久しぶりに出た個性派の歌手だった。

 しかし、エイミーの私生活は、ブレイク・フィルダー・シビルとの結婚以来、酒とドラッグ漬けになり、その関係の波乱が、エイミーをいっそう不安定にしたのである。グラミー賞、ミリオンヒットと、その生活は、若くして異常なる世界に突入していたのだ。受賞後のヒット曲のなさも焦燥に繋がったとも云われてる。

 歌手が、1曲ミリオンヒットすると、その時点では、頂点であるが、その曲に縛られてしまうのだ。どんなステージでも必ず歌わされるし、繰り返し繰り返し歌う事になる。それが歌手にとって、ハッピーなら良いが、次のニューヒットを出す事に悩むはめになるのである。あのイーグルスも「Hotel California」のメガヒットでグループ解散まで追い込まれたりした時期がある。立て続けのヒットを持つ歌手は、ハッピーだが、たいがいは、そのナイーブな歌手たちにプレッシャーをかけてしまうのだ。その苦しみと歌の創造性にはさまれて、人間環境模様とともに、才能ある歌手たちが堕ちていくのは難しい事ではないのだ。

 ステージにフレアのスカートで両腕に刺青丸出しで、およそ今の歌手のような派手な動きでなく無駄動きのしないエイミーが淡々と歌唱する。その袖には黒人の二人組がかっこ良いリズムダンスをしている。エイミーは歌の合間にしゃがんで床においた何か白い液体のはいったグラスを少し飲む。そしてハスキーなシャウトが再開する。このライヴ映像はエイミーの表情の細かいところまで見せてくれる。

 久しぶりの美味なる歌姫、エイミー・ワインハウスの歌唱は、もっと聴きたかった。見たかった。あまりにも速い、エイミーは「魔の27歳」エキスプレスに乗ってしまった。

(Photo Art by Tohru IKENO)

シューベルト・ロッシーニ・八重奏・・・・・森本 恭正
 1828年11月19日作曲家フランツ・シューベルトは彼の実兄の家で午後三時に息を引き取った。31歳であった。その短い生涯に8つのシンフォニー、8曲のミサ、8作の歌劇、14曲のピアノソナタ、数々の室内楽、そして600曲以上の歌曲を書いた。1820年代にはすでに、ウィーンの上流界において、天才作曲家としてのフランツ・シューベルトの名前は知れ渡っていた。

 だからと言って当時ヨーロッパ中にその名を轟かせていたロッシーニとは比較するべくもなかった。実際、ロッシーニの活力に漲ったallegroは正にallegro(明るく)という本来の意味を持って鳴り響き、1822年に行われた彼の歌劇「ZELMIRA」のウィーン公演で、ロッシーニは熱烈な歓迎を受けたといわれている。その陰で、多くの作曲家は彼に嫉妬した。多分シューベルトも。

 シューベルトには明るい作品などないといわれる。どんなに、普通なら「明るく」感じる素直な長調で書かれている作品であっても、そこにはいつも、どうしようもない悲しさが付き纏う。その悲しさは、シューマンやブラームスなど多くのロマン派といわれる作曲家が書いた「文学的な」悲しみとは違い、ただただどうしようもなく悲しく、それが聴く者の体に浸潤してゆく。

 悲歌は地政学的にみて、虐げられた地域で生まれるという。アイルランド、朝鮮、米国南部の黒人奴隷、沖縄、東北地方などなど。ボヘミア(チェコ)出身の父親とポーランド国境近くで育った母親との間に生まれたシューベルトもまた、ハプスブルク帝国の首都ウィーンにあってマジョリティーに位置する人ではなかった。

 「旅人としてこの町に来て、旅人として再びこの町を去ってゆく」

 詩人ヴィルヘルム・ミューラーが書いた歌曲集「冬の旅」の冒頭の一句に何故彼が共感したのか、その理由もわかるような気がする。それは、スラブ系の血を引く彼が、ウィーンで恐らく感じていたであろうある種の疎外感が成すものかもしれないし、また、独身で恋人すらいなかった彼自身の性的な孤立感ゆえかもしれない。友人は沢山いたというのに。

 しかしこの寂寥感に聴く人は包まれる。それはきっと、我々の多くが、歓声を上げて人生を謳歌しているわけではないからかも知れない。シューベルトの歌はそこに共感の息を吹きかけてくる。

 1987年の夏の約2か月間、私はウィーン市立図書館の一室で、シューベルト八重奏曲の自筆楽譜を前にしていた。週日の朝9時から12時まで、ひたすら彼の自筆楽譜を筆写した。そのようなことをした切っ掛けが何であったのかは思い出せないが、出版譜からは読み取れない何かを自筆譜の中に探しに行ったのだと思う。自筆譜のもつ凄みは、これはシューベルトが書いたものだとわかって手に取っているという事を差し引いても、津々と伝わってきた。当時、ベルリンフィルのメンバーが、録音の為この自筆譜を見に、ウィーンまでやってくると漏れ聞いたことがある。

 30年経って、今年、現在のベルリンフィルのメンバーによるシューベルト八重奏曲のCDがソニーから発売された。制作はウィステリアプロジェクトである。コンサートマスターの樫本大進を筆頭に主席奏者を含む8人のメンバーの技術力も合奏力も想像に違うことなく高く、強奏される部分など、壮麗に、まるでリヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲の様に高らかに響く。そして最終楽章のallegro moltoはロッシーニのプレストのようだ。こんな速さでこの楽章を弾いたアンサンブルはいないと思う。それでも合奏は乱れない。

 さて、この世界第一のオーケストラ団員による名手達が目指したものは何だろうか。

 1817年シューベルトはイタリア風と題された序曲を2曲書いた。それらは、成否は別としてロッシーニのパロディーといわれている。シューベルトがもし、この強く早く輝きに満ちた八重奏の演奏を聴いたらきっと瞠目して驚くだろう。「そうだ!あの時はこれがやりたかったのだ!」と叫ぶかもしれない。丁度200年後に成ったパロディーとして。

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