Classic CONCERT Review |
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東京シティ・フィル第50回ティアラこうとう定期演奏会
團伊玖磨:オペラ「夕鶴」
高関健指揮 つう:腰越満美、与ひょう:小原啓桜、運ず:谷友博、惣ど:峰茂樹、
児童合唱:江東少年少女合唱団(9月30日 ティアラこうとう大ホール)
演奏会形式(字幕付)で行われた。舞台装置も演技も衣装もないので、オペラの仮の姿、リハーサル・バージョンだなどと思われる方もいるかもしれない。しかし、舞台がない分、音楽に集中できる。舞台装置の変化や歌手の動きに目が取られないだけ、團伊玖磨の音楽そのものを楽しむことができた。小説が映画化などによって視覚化されると自分が描いていたイメージと違うことが多く、がっかりすることがある。この日は背景を自由に想像することができて、むしろ楽しかった。「夕鶴」ではヴァーグナーに由来する指導動機が多用され、また自然や感情描写が多いが、高関の表現力によって聴衆はそれぞれの頭の中で自由に自分の世界を思い描けたのではなかろうか。
歌手では、与ひょうの小原が光った。歌唱力、声質、表情、しぐさなどすべてが与ひょうの人柄を的確に表現していて、はまり役と言ってもいいほどに感じた。運ずの谷、惣どの峰もよく声が出ていて、悪役の説得力があった。そして、つうの腰越だが、男声陣と同様、歌詞の発音に気を配っているのがよく分かった。苦労と配慮が演奏に出ていて好感が持てた。声量、歌唱力なども満足いくものだった。ただ、つうの感情表現の点からは少し物足りなかった。衣装(日本の着物)を着けず、演技もできない中で制約は多くあっただろうが、役作りから考えれば、人間としてのつうは夫を立てながら愛する昔の大和撫子、しかし鶴としての本性は強い女。その二面性をいかに表現するか、難しいと思う。純朴な与ひょうとのバランスを考えれば、もう少し弱く、若めのつうの一面を出してくれればもっとよかったのでは。子どもの合唱はこのオペラでは特に重要な役割を与えられているが、独唱部分も含めてすべてが素朴に歌われ、作曲家の意図に近い演奏だったと思う。そして、可愛かった。
(石多正男) |
Classic CONCERT Review【オペラ】 |
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NHK音楽祭2017 キリル・ペトレンコ バイエルン国立管弦楽団 ワーグナー楽劇「ワルキューレ」第1幕ほか(10月1日、NHKホール)
前半は、マティアス・ゲルネによるマーラー「こどもの不思議な角笛」から7曲。ゲルネは弱音が素晴らしく、曲ごとの世界を濃厚に歌い分けた。ペトレンコとバイエルン国立管も、ゲルネの繊細さに呼応し、室内楽的な精密さで支えた。「地上の暮らし」の、飢え死にした子供が棺桶に横たわるという強烈な最後にサスペンドシンバルがかすかに鳴らされ、その余韻の中、次の「原光」(マーラーが「復活」第4楽章に使用)に入っていったことは極めて印象的。その「原光」と、最後の「少年鼓手」のコーダ「おやすみなさい」の痛切さが最大の聴きどころだった。
後半のワーグナー楽劇「ワルキューレ」第1幕こそ、ペトレンコとバイエルン国立歌劇場来日公演中最高の演奏だったのではないだろうか。残念ながら「タンホイザー」はゲネプロだけなので、正確な比較はできないが、それでも今日の「ワルキューレ」は抜きんでたと思う。
まず歌手陣全員が絶好調であり、来日最終公演に向けて、気力・集中力がみなぎっていた。特にジークリンデのエレーナ・パンクラトヴァ(ソプラノ)が素晴らしく、伸びやかで力強く潤いがあるドラマティックな歌唱で、理想のジークリンデを歌った。
クラウス・フロリアン・フォークト(テノール)は、ジークムントのある意味弱い側面を、抒情性あふれる歌唱で明らかにしたとも言えるのではないだろうか。伸びのある美しい声は、パンクラトヴァとの相性もぴったりで、ジークムント、ジークリンデの兄妹の共通性が感じられ、理想的な組み合わせだった。もちろん「冬の嵐は過ぎ去り」をフォークトで聴く喜びは格別だった。
ゲオルク・ツェッペンフェルトは、フンディングにしては品格がある歌唱だが、充分すぎる重厚さを発揮した。
最大最高の収穫は、オペラ指揮者キリル・ペトレンコの真価を知ることができたことだ。その指揮は徹頭徹尾音楽的であり、歌手とオーケストラの一体感を寸分の隙もなく創り上げていく。バランス感覚の細やかで正確なことは驚くばかり。特に弱音の表現がすばらしいことが今回よくわかった。歌いだしの指示も的確で、歌手にとってこれほど歌いやすい指揮者はいないだろう。
バイエルン国立管弦楽団の音は渋さと独特の影があり、それが音楽に奥行きと深みを与える。オペラを熟知したオーケストラの自発性と柔軟性は超一流の歌劇場オーケストラであることを実感させた。(長谷川京介)
写真:キリル・ペトレンコ(c)Wilfried Hösl,
クラウス・フロリアン・フォークト(c)Harald Hoffmann,
エレーナ・パンクラトヴァ(c)Vitaly Zapryagaev
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Classic CONCERT Review【オーケストラ】 |
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水戸室内管弦楽団第100回定期演奏会(10月13日、水戸芸術館コンサートホール)
ベートーヴェン交響曲第9番。小澤征爾は第3、4楽章を、ラデク・バボラークが第1、2楽章を指揮という変則だが、小澤の体力からやむを得ないのでは。
バボラークの指揮は誠実なもので、第2楽章スケルツォは遅くどっしりとしていた。終わって拍手がおこるが、バボラークはすぐにステージから去り、代わって小澤が上手から、ソリスト、東京オペラシンガーズが下手から登場した。
小澤の指揮になると水戸室内管弦楽団の音は、完全に変わる。第3楽章の響きは、この世のものとは思えない。透明で、彼岸の世界に足を踏み入れたよう。バボラークもホルンに加わり素晴らしいソロを聞かせた。
第4楽章の冒頭のレチタティーボは、小澤としては、もっと重厚にしたがったのでは。しかし、体力がオーケストラにも反映したかのように、芯が不足したように感じた。ところが、声楽が参加してからの音楽は全く変わった。
バリトンのマルクス・アイヒェの第一声が格調高く、合唱の東京オペラシンガーズが加わると、演奏は俄然白熱する。アルトの藤村実穂子は、大きく深い声で圧倒する。テノール福井敬とソプラノの三宅理恵は健闘。
小澤はずっと椅子に座って指揮したが、330小節のvor Gott!でついに立ち上がった。
声楽が参加してからの音楽の変貌は、凄まじいもので、二重フーガからアレグロ・マ・タント、プレスティッシモのフィナーレは、崇高と言うしかない領域に入っていった。
これまで、何度小澤の演奏を聴いたのか、数えきれないが、今日の演奏はトップに挙げたくなるほどの、感動を与えてくれた。水戸芸術館という会場の大きさが、演奏者と聴衆の距離を近くした。演奏が終わると同時にスタンディング・オベイションになったのは当然だろう。演奏者全員が登場してのカーテンコールは四回。小澤の健康を気遣い、ステージのドアが閉められるまで、果てることがなかった。(長谷川京介) |
Classic CONCERT Review【器楽・ピアノ】 |
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メナヘム・プレスラー ピアノ・リサイタル(10月16日、サントリーホール)
93歳の本当に小さなプレスラーが付き添いの女性の手を借りながら、杖をついてステージにゆっくりと登場するだけで、少し胸が熱くなる。鍵盤に蓋をしたままのピアノに手を置いて、やっと椅子に腰かける。一昨年予定されていたリサイタルは体調不良のためキャンセルされた。体調は果たして大丈夫なのだろうか。
1曲目ヘンデルの「シャコンヌ ト長調HWV435」の主題が軽やかに鳴る。鍵盤を叩く力は強くはない。しかし変奏が始まると、高音部の玉を転がすような音はとても美しい。プレスラーは拍手に応じるとき、椅子に腰かけたまま聴衆に会釈した。
2曲目、モーツァルトの「幻想曲ハ短調K.475」は重い響きでハ短調のアダージョが始まりすぐニ長調の明るい主題になる。転調を繰り返すアレグロからアンダンティーノ、ピウ・アレグロと続く部分はダイナミックの幅もあり、力強い。
プレスラーは体調がいいようだとはっきりとわかったのは、幻想曲につなげて演奏されたモーツァルト「ピアノ・ソナタ第14番ハ短調K.457」を聴いてから。第1楽章副次主題の何という若々しさ!モーツァルトの音楽が内から噴き出してくるようなエネルギーを感じる。第2楽章アダージョの繰り返される主題の装飾音とベートーヴェンの「悲愴」第2楽章に似たフレーズは清らかで天国的。第3楽章もロンド主題を繰り返す力は衰えず、とても93歳の小柄な老ピアニストの演奏とは思えない。若いピアニストと同列の強さではないことはもちろんだが、音楽の包容力が大きいので、格が違う。
この夜のサントリーホールはピアニストやピアノ音楽を愛する人、また深く音楽を聴く人たちが多く集まっていた。プレスラーの音楽を聴くのは、ひょっとするとこれが最後になるのでは、という思いもどこかにあったのでは。私自身も「遺言」を聞くつもりで、襟を正して聴いていた。
前半が終わって、20分の休憩後、再び登場したプレスラーは顔に赤みが増し、より元気になったように見えた。そして、この日の演奏のピークはこの後半にあった。ドビュッシーの前奏曲集でこれほど感銘を受けたことは、かつてなかった。
第1集から5曲が演奏されたが、特に「帆」がすごかった。完全に脱力された指先から生み出される神秘的で別世界に連れていかれるような音には茫然として心が無になった。続く「亜麻色の髪の乙女」も「帆」の世界をひきすったように、遠い世界から音楽が聞こえてくる。
ドビュッシーの後の、ショパンのマズルカ3曲(第25,38,45番)がまた絶品。最後に弾かれた「バラード第3番」の格調ある語り口も含めて、プレスラーの弾くショパンの品格の高さは比類がない。ピアノという楽器からこれほど高貴な大きな世界が生まれるとは。それは「奇跡」と呼びたいほどだ。最後はさすがに疲れが見えたが、ここまで弾き切るプレスラーの命の火を燃やすようなエネルギーに圧倒された。聴衆の多くがスタンディングオベイションを送る中、アンコールは、ショパンの「ノクターン第20番嬰ハ短調遺作」。プレスラーがいつもアンコールで弾く曲だ。周りからすすり泣き、嗚咽が聞こえてくる。しかし、私にはプレスラーの演奏に意思の強さが感じられ、決して感傷に流されてはいないと思った。この曲の本質はイメージとは違って、強く根を深く張ったものがあるのではないだろうか。
スタンディングオベイションを送る聴衆の数はさらに増えたが、なんとプレスラーはもう1曲演奏するために戻ってきた。時刻はすでに午後9時を回っている。最後はドビュッシーの「月の光」。再び遠くの世界に聴き手を誘う。
サントリーホールのほぼ全員が立ちあがりプレスラーを讃える。こうした光景は初めて見た。NHKのテレビ収録があったことはありがたい。記録され、いつまでも語り継がれるべきコンサートだと思う。(長谷川京介)
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Classic CONCERT Review |
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東京シティ・フィル第310回定期演奏会
チャイコフスキー:イタリア奇想曲、同:ロココの主題による変奏曲(チェロ独奏:岡本侑也)、同:交響曲第4番
飯森範親指揮 (10月19日 東京オペラシティコンサートホール)
冒頭のイタリア奇想曲、オケののびやかで、彩り豊かな音色に引き込まれた。これほど明るいオケの響きは久しぶりに聴いたような気がする。イタリアの祭りや踊りの楽しさが生き生きと伝わってきた。レスピーギの「ローマの祭り」を思い出した。岡本のチェロはち密さと繊細さを合わせ持っていてなかなか聴きごたえがあった。音が少し硬い感じで、また曲想に合わせて起伏の変化がもっとほしい気がしたが、オーケストラの中から浮き出るような存在感は十分にあった。アンコールでソッリマの「ラメンタチオ」が演奏された。これはチェリストのアンコールピースとしてよく使われるが、チェリストが母音唱法で歌いながら演奏する。おそらく難しいだろうが、むしろユーモアさえ感じさせて聴衆の心を捉えていた。岡本の別の才能が表れていて非常に楽しめた。最後の交響曲第4番だが、冒頭のイタリア奇想曲と同じようにオケがよく鳴っていて、それだけで幸せな気持ちにさせられた。叙情的な部分で表現に曖昧さがあるように感じたが、第3、4楽章ではそんなことを忘れさせる響きと迫力に圧倒された。
(石多正男) |
Classic CONCERT Review |
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熊本マリの夜会 〜ピアノが語る4人の哲学者〜
サティ、バッハ、モンポウ、リストの小品他(10月20日 東京文化会館小ホール)
近年、プレトーク、プレ演奏、リサイタルではトークを入れるなど聴衆との一体感を得ようとする試みが多い。その効果は特にリサイタルでは大きくなるようだ。比較的小さなホールで、演奏家と聴衆の心の距離が近くなる。ショパンやリストの時代には貴族の館(サロン)でピアノ曲は演奏されていたのだから、もっと増えてもいいのかと思う。熊本はトークも巧みで、演奏前の聴衆の聴く興味を高めてくれていた。ユーモアもあり、好感を持てた。「熊本マリの夜会」と題し、あえてリサイタルという言葉を使わないことにその意図が明確に示されていた。
さて演奏だが、まずプログラムが多彩だった。前半も後半もサティで初め、バッハのゴールドベルク変奏曲(一部)、スペインの作曲家モンポウMompouを挟んで、リストのシューマンやシューベルトのリートからの編曲、最後にリスト(「タランテラ」など)で締めくくるというもの。いずれもかなり攻撃的な演奏と言ってよかった。ホール全体に響き渡るピアノ、いい意味で細部にこだわらないスケールの大きさ。これは彼女の個性として群を抜いているのではなかろうか。パワーに圧倒されてしまった。あまり知られていないモンポウ、そしてアンコールで弾いたギロックGillockの楽しさを教えてくれたのも嬉しかった。帰りにワインのプレゼントがあったのにはびっくり。心温まる印象に残る夜会!だった。(石多正男) |
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