2017年10月 

  

Classic CONCERT Review

東京シティ・フィル第309回定期演奏会 ハイドン:オラトリオ「天地創造」
高関健指揮 ソプラノ:安井陽子、テノール:中嶋克彦、バス:妻屋秀和、
合唱:東京シティ・フィル・コーア(9月8日 東京オペラシティコンサートホール)
 冒頭、大オーケストラと大合唱に驚いた。ハイドンを初めとする古典派以前の作品では、近年大オーケストラではあまり演奏しない。とはいえ、ヴィブラートを抑えた非常に素朴でストレートな音はむしろ新鮮だった。多人数の合唱はしっかり練習を積んだ成果が表れていたように思う。オケと対等に、かつうまく溶け合い説得力があった。また、オケの自然描写、さまざまな動物の描写は分かりやすく面白かった。よく表現できていたと思う。独唱の3人については、それぞれはよく声も出ていてよかったのだが、やはりオケにとってはゲストであることを感じさせた。要するに、オケとのアンサンブルという点では物足りなかった。また、チェンバロは大オーケストラの中に埋没している印象があった。音楽史的に考えれば、ピアノでもいいはずだし、現代の大オーケストラを使うのなら、なくてもいいのではと思った。最後に、字幕はやはりあった方が聴衆には親切だっただろう。(石多正男)

Classic CONCERT Review【オペラ】

ヴェルディ『オテロ』演奏会形式 バッティストーニ 東京フィル(9月10日、オーチャードホール)
 バッティストーニと東京フィルは、生命力にあふれる演奏で感銘を与えた。歌手陣も中一日の休みだけで、健闘したと言える。特にデスデーモナ役のエレーナ・モシュク(ソプラノ)は、第4幕の<柳の歌><アヴェ・マリア>で潤いのある美声を聞かせた。オテロ役フランチェスコ・アニーレ(テノール)は、疲れのためか不調で気の毒なほどだったが、強く歌う場面は立派だった。イアーゴ役イヴァン・インヴェラルディ(バリトン)は安定していた。最後に客席から再登場し、舞台中央で自害したオテロをふてぶてしく見下ろすというバッティストーニによる演出も効果的で存在感を示した。
 重唱は迫力があり、第2幕最後オテロとイアーゴの二重唱<大理石のような空にかけて誓う>と、第3幕フィナーレのコンチェルターテ<地に付し、泥にまみれ>は、最大の聞き所となった。
 鳴り物入りで紹介された真鍋大度・石橋素が率いる「ライゾマティクスリサーチ」の映像演出は、終演後のカーテンコールでスタッフが登場するや、数人の聴衆から「ブーイング」が浴びせられたが、同調したくなった。モノクロの光や図形が激しく点滅し動き回る映像は、言葉は悪いが安手のディスコの照明のように感じられた。聞けば、ポップスやダンスなどは数多く手掛けているが、オペラは初めてとのこと。バッティストーニの腕の動きをコンピュータと連動させるなどして音楽のダイナミズムを表現したというが、音楽との関連性は感じなかった。新しい試みという意欲は買うが、観る側からすれば、むしろシンプルな照明と小道具のほうがよかったかもしれない。(長谷川京介)

写真:(c)上野隆文

Classic CONCERT Review

大野和士、東京都交響楽団、第839回定期演奏会、ハイドン:オラトリオ「天地創造」(9月10日、東京芸術劇場大ホール)
 合唱にスウェーデン放送合唱団を迎えての「天地創造」。ソリストはSop.が林正子、Ten.が吉田浩之、Bar.がディートリッヒ・ヘンシェル。初演時の形態に近づけたというオックスフォード版が用いられた。初演時は4管の大編成だったとのことだが当日の編成は2管の12型。ハイドン研究の論文によれば、初演時は第17曲の「産めよ、ふえよ」がレチタティーヴォ・セッコだったとのことだが、オックスフォード版は聴きなれた中低弦の5部によるレチタティーヴォ・アコンパニャート。こうなるとさほど版の違いを意識することにはならなかった。
 演奏は非常に立派で襟を正される思いがした。まずスウェーデン放送合唱団が最高に美しい。古楽的にリズミックな処理を強調するのではなく、ハーモニーの色合いを入念に響かせる仕上げ。にもかかわらず言葉の明晰さをまったく失わない。大野の指揮も決して上滑りすることのない堂々たる骨格を示す。作品が持つ荘重さがこれ以上なく際立つ。チェンバロではなくフォルテピアノを用いたことも効を奏した。
 印象に残った点を曲順に挙げる。まず第10曲の合唱。厳格なフーガの威容を経てホモフォニックな主題が回帰するさいのフェルマータ。大野は拳を天に突き上げ思い切って効かせた。フェルマータの後、楽譜では1小節のパウゼがあるが、大野は間髪入れず主題再現へ入った。古楽全盛の昨今、これほど思いきった演奏はなかなか聴くことができないだろう。次に第12曲。再弱音の1st.Vn.が対旋律を従えニ長調の音階を静かに上昇しその頂点でトゥッティが爆発する。会場に光が充ち溢れるかのようだった。その次の「夜」との明暗の対比も見事だった。第19曲。三重唱が半終止した後、合唱が融合する。3人のソリストと合唱の対比が冴えわたる。「自然の王」たる人間が創造される第24曲、ウリエルを歌った吉田浩之が誇り高く高貴だ。人間の創造を終えた第二部の終曲では、歓喜に沸く中でヒュブリス(驕り)を諌めるようにラファエルの箴言が響く。「人間」の創造に際してのみ警句が発せられるのだ。オケの音色が一変し、警句が心の底に刻みつけられるような思いがした。晴れやかさが一貫する作品だけに、この箇所は印象を強くする。ラファエルを歌ったヘンシェルも素晴らしかった。声量は絶えず抑え気味だが完璧にコントロールされている。歓喜を破って遠くから響いてくるように聴こえる。ソプラノの林も万感を込めながら決して初々しさを失わない。愛らしいガブリエルとイヴを好演した。まさに適材適所だ。
 他方でいくつかの点は残念に思われた。まず、第22曲。自然と動植物の創造を終えたが「まだ恵みを褒めたたえる被造物が欠けている」とラファエルが歌う。ヘンシェルは立派だった。しかし、B以降、御業を讃える「人間」を予感させるTp.のモチーフが響きに溶け合って埋もれている。大野は意図して、まるく溶け合った響きを作っていた。しかし、アーノンクールなどはこのTp.を巧みに強調している。いよいよ人間だという期待を膨らませる。古楽系の指揮者たちは一歩進んだ解釈を提示している。他の作品を演奏してもそうなのだが、大野にはモチーフを細かく分析し音楽を再構成する視点がより求められるのではないか。また第二部と第三部の終曲のエンディングで大きくアラルガンドをかけた。これは音楽の流れを悪くしたし、アインザッツの不要な乱れを引き起こした。必ずしも効果的ではなく惜しかった。
 とはいえ、ハイドンの端正かつ理知的な音楽の魅力を堪能した。ハイドンの音楽はいかに創意工夫に満ちていても事柄を越える大言壮語をしない。語るべき事柄に相応しい語彙を適切に選ぶ美しい言語を思わせる。終曲では「持つべき以上を望んだり知るべき以上を知ろうと欲する迷妄に陥らない限り」という制限が課せられた上で賛美の歌合戦が繰り広げられる。この作品と大野=都響の演奏は、この歌詞の理想を体現していたと言える。(多田圭介)

Classic CONCERT Review【オペラ】

モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』演奏会形式 ヤルヴィ N響(9月12日、横浜みなとみらい 大ホール)
 実力・容姿・若さの三拍子が揃った歌手たちが、気持ちのいい歌唱を聞かせてくれた。カイル・ケテルセン(バス・バリトン)のレポレッロの軽妙な演技と余裕のある歌を筆頭に、ジョージア・ジャーマン(ソプラノ)の深く強いドンナ・アンナ、ヴィート・プリアンテ(バリトン)のドン・ジョヴァンニの役柄にふさわしい性格表現、張りのある美声が魅力のベルナール・リヒター(テノール)のドン・オッターヴィオまで、いずれも充実。期待のアネット・フリッチュ(ソプラノ)はキャンセルしたが、代役のローレン・フェイガン(ソプラノ)のドンナ・エルヴィーラも決して引けをとらない。素晴らしい存在感を示したのは、騎士団長役のアレクサンドル・ツィムバリュク(バス)だ。石像のシーンはオルガン横に立つため客席から遠いが、重厚で力を秘めた声は隅々までよく伝わってきた。
 ツェルリーナの三宅理恵(ソプラノ)が好演。海外の歌手と較べると、体格の違いもあり、強さはないがマシュマロのような柔らかな声は魅力。第1幕ドン・ジョヴァンニとの二重唱「お手をどうぞ」では、プリアンテに触発されたかのように、歌唱がどんどん良くなっていった。モーツァルトの歌の背後に隠れた「透明な哀しみ」を感じさせた。
 ヤルヴィとN響は名演。楽員の集中力ある演奏には、ヤルヴィへの信頼感が表れていた。序曲から覇気があり、全体的にオーケストラの主張が強い。ヤルヴィがコンサート指揮者であり、オペラに精通していないこともあり、個々の歌手に対する細やかなサポートや一体感という点では、多少違和感があった。しかし、第1幕最後のアンナ、エルヴィーラ、オッタービオ、ジョヴァンニの四重唱や、第2幕フィナーレは、鮮やかな手腕で盛り上げ、客席は沸いた。
 演出は佐藤美晴。ベンチを置いただけのシンプルな舞台。スマホやiPadを小道具にした気の利いた演出は、とても好感が持てた。合唱は東京オペラシンガーズ。チェンバロの石野真穂も的確な演奏で拍手を浴びていた。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【器楽(ピアノ)】

アンジェラ・ヒューイット バッハ・オデッセイ3&4(9月13、14日、紀尾井ホール)
 4年間12回のリサイタルで、バッハの全ソロ鍵盤曲を弾くアンジェラ・ヒューイットのプロジェクト。今回は2日間でパルティータ全曲ほかを演奏した。作品の完成度の高さでは群を抜くパルティータに対し、ヒューイットも絶好調で、質の高い演奏が展開された。
 ヒューイットのピアノは、いつもながらバランスが良い。左手のバスと右手の旋律線の動きが見事で、バッハの対位法が明確に表現される。すべての音とフレーズが考えぬかれており、装飾音やトリルも宝石のような輝きがある。
 また、楽曲全体の構成も堅固で、音楽に停滞はなく、一貫した流れが保たれる。知的で洗練されたバッハと言えるだろう。
 今回印象に残ったのは、各曲の「サラバンド」の孤独感がにじみ出た表現。沈潜していく音楽は果てしなく深かった。
 演奏内容としては、2日目最後に演奏されたパルティータ第6番が最も素晴らしかった。バッハの最高傑作のひとつとヒューイットがプログラムに書いた通り、第1曲「トッカータ」は、襟を正したくなるような威厳と思考の深さを感じさせた。「サラバンド」の装飾音ひとつひとつまで細やかな神経が通っていた。ファツィオリの気品ある響きもヒューイットの表現に適している。
 最後の「ジーグ」は、さすがのヒューイットも集中力が切れたように感じたが、弾き終わった後、エベレスト登頂に成功した登山家のような達成感に満ちた表情を見せた。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】


コルネリウス・マイスター 読売日本交響楽団 ダニール・トリフォノフ(ピアノ)(9月16日、東京芸術劇場コンサートホール)
 読響首席客演指揮者就任後、初の舞台となるコルネリウス・マイスターと、2011年チャイコフスキー・コンクール優勝のダニール・トリフォノフの共演はプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番。ファツィオリのピアノから、華麗かつ鋭利な響きを作り出し、自分のスタイルを貫き通すトリフォノフの演奏からは、プロコフィエフの作品が持つ、ロシア的側面や諧謔性といった面はあまり感じられない。また第3楽章中間部のピアノのグリッサンドも、透明感はあるが淡泊で、もう少し色彩感がほしいとも思った。しかし、第1、第4楽章のカデンツァでは切れ味のいいスケールの大きい演奏を聞かせた。マイスター、読響も分厚い響きでトリフォノフをバックアップした。
 マイスターは、これまでウィーン放送交響楽団で二度聴いた。溌剌とした、しなやかな音楽をつくる指揮者だという感想を持ったが、読響でも同様に感じた。違いは読響の特徴である重厚な中低音が生かされていたことだろうか。
 1曲目スッペの喜歌劇「詩人と農夫」序曲もさっそうとして鮮やかな指揮。チェロ首席の遠藤真理のソロが美しかった。
 ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」は、深い解釈を聞かせた。特に第2楽章<小川のほとりの情景>はゆったりと歌わせ、ヴィオラ、チェロ、対向配置の第1、第2ヴァイオリンなど各声部の描きわけが明快で見事だ。読響は、ファゴットとクラリネットのソロが良かった。第1、第3、第4楽章は快速テンポが心地よく、生命力にあふれていた。マイスターの長所のひとつにリズム感の良さがあり、緩急にかかわらず、生き生きとした音楽の流れを作る能力は非凡なものがある。
 ウィーン放送響と同じく、楽章間ではオーケストラに厳しい目を注ぎ、楽員の意識が集中するまで間合いをしっかりとる。若いにもかかわらず、堂々として統率力のある指揮者だ。(長谷川京介)
 
写真:コルネリウス・マイスター(c) Marco Borggreve
ダニール・トリフォノフ(c)Dario Acosta DG

Classic CONCERT Review【オーケストラ】


バイエルン国立管弦楽団 特別演奏会(9月17日、東京文化会館大ホール)
 来年からベルリン・フィルの首席指揮者・芸術監督になるキリル・ペトレンコが、バイエルン国立歌劇場とともに初来日。1日だけオーケストラによる特別コンサートを開いた。
 前半は、イゴール・レヴィットを迎えて、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」。超満員の会場。期待通りの素晴らしい指揮を聞かせた。どこが素晴らしいのか。
 第1に、音楽の本質をつかみだすこと。第2に、明確な構築性、立体性があること。第3に、旋律の歌わせ方が素晴らしいこと。
 ラフマニノフでは、第11変奏の弦のトレモロのピアニシモが驚くべき繊細さを持っていた。そして、第18変奏のメロディーの歌わせ方が素晴らしい。
 レヴィットは、2004年浜松国際ピアノアカデミーコンクールで優勝しているので、日本とは縁がある。彼もまたペトレンコと同じく、音楽だけを聴かせるアーティストだ。特に弱音がいい。アンコールのワーグナー(リスト編)「イゾルデの愛の死」のコーダには感銘を受けた。
 マーラーの交響曲第5番は、美しい演奏だった。これまで幾度となく実演で聴いたが、これほど純粋で音楽的な演奏は初めてだ。ペトレンコの指揮からは、ハッタリや、誇張、情念に偏った音楽は聞こえてこない。
 バイエルン国立管弦楽団は優秀なオーケストラだが、ベルリン・フィルやコンセルトヘボウと並ぶ超一流のオーケストラとは言えない。そのため、第1楽章から第3楽章までは、肝胆を寒からしむほどの衝撃を感じることはなかったが、第1楽章冒頭のトランペット、第2楽章のホルンのソロは立派だった。第1楽章第2トリオの弦の響きは深く、第2楽章のチェロの第2主題も素晴らしかった。第4楽章アダージェット中間部の第1ヴァイオリンによる情熱的な旋律は、オペラアリアのように歌わせた。後半は弦の各セクションが重層的に描き分けられた。
 休みなく続いた第5楽章は、美しい演奏の極致。特に弦が素晴らしい。オーケストラは最強部分でも混濁せず、バランスがとれている。最後の金管のコラールは、のびやかでみずみずしい。ペトレンコの指揮で聴くと、音楽とはこれほど純粋で美しいものだったのか、という新鮮な驚きを感じる。ベルリン・フィルがペトレンコを指名した理由がよくわかる気がした。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【器楽(ピアノ)】

岩倉孔介ピアノ・リサイタル(9月20日、東京文化会館小ホール)
 文化庁と日本演奏家連盟が主催する「新進演奏家育成プロジエクト・リサイタルシリーズ」で、今年34歳の岩倉孔介のリサイタルを聴く。 
 岩倉はスケールが大きく骨太で男性的なピアノを弾く。その音の大きさにまずは驚いた。最前列では鼓膜が破れんばかりに聞こえたので、曲間に後方席に移動したほどだ。
 最初のベートーヴェン、ピアノ・ソナタ第8番ハ短調作品13「悲愴」は強烈な打鍵で、闘争的なベートーヴェンを思わせる。強く太い音は、第1楽章や、第3楽章では効果的だが、第2楽章アダージョ・カンタービレでは、優美な歌心や情感、細やかな表情を犠牲にしてしまう。
 武満徹「ピアノ・ディスタンス」(1960)は、「能」の舞台を写し取ったと、岩倉がプログラムで紹介していたが、切り立った音は、鼓や舞台上で演者が床を鳴らす音のようにも感じられた。岩倉の強い音は、日本の現代音楽というよりも、西洋音楽の世界に武満を引きずり込んだような趣があった。
 リストの「ダンテを読んで〜ソナタ風幻想曲」は、岩倉孔介のピアノにぴったりだった。「音楽の悪魔」とも呼ばれる増4度音程の下降が不気味さを醸し出すが、岩倉もペダルをしっかりと使い、打鍵も最大限まで強調して、地獄の世界を描きつくす。いささかやりすぎだったかもしれないが、それもまた若いピアニストならではの野性味と言えるだろう。
 後半は、シューベルトのピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D.960。ベートーヴェンと同じように、岩倉の奏法は、溌剌とした第3楽章スケルツォと、活気に満ちた第4楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポには合うが、悲しさを秘め歌心に満ちた第1楽章モルト・モデラートと、深く沈み込む第2楽章アンダンテ・ソステヌートでは、情感がやや不足する。シューベルトの苦悩と孤独を味わいたい聞き手としては、そこが物足りなかった。しかし、この長大な作品を一気に弾き切る技術と、全体を貫く太い柱を持つ演奏の構成力は、称賛に値するのではないか。
 アンコールのブラームス「ロマンス」作品118-5の、ひろびろと視界が広がるような演奏は、岩倉孔介の世界を端的に示していた。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review

「クレア・フアンチ ピアノ・リサイタル」(9月28日 白寿ホール)
ベートーヴェン「月光」
ショパン:ノクターン第7,8番(作品27)
スクリャービン:ピアノ・ソナタ第2番
ショパン:前奏曲作品28

 27歳になる中国系アメリカ人だが、かつて神童と言われたその実力を見事に聴かせてくれた。指の回転の速さと正確さには脱帽、その上、もちろん聴衆の心に響く感性も持っていた。とはいえ、冒頭では、まずピアノの大きく曖昧な響きに戸惑った。ホールの残響が長く、ペダルとの相性がよくなかったのかもしれない。そのせいか前半の3曲は、3人の巨匠それぞれの個性がはっきり出ていなかった。ところが、後半の前奏曲作品28全曲ではこちらの耳が慣れたためか、そういった点は気にならず、彼女の表現の多彩さ、輝かしさ、説得力に引き込まれた。得意というショパンだけに実に堂々と、自信ありげに演奏していた。演奏は新世代の様式と言えるものだった。余計な味付けをせず、テンポを揺らすなどして個性を意図的に出そうとはしていない。いい意味で楽譜に忠実に淡々と演奏していた。これには大いに好感がもてた。アンコールで、これも得意だというスカルラッティのソナタから3曲他を弾いたが、プログラムのベートーヴェンやショパンにはないユーモアに満ちた軽快さ、楽しさが大いにウケた。最初からスカルラッティをアンコール曲として予定していたのだろうが、ここでも彼女の別の才能が聴かれ、リサイタルの一夜すべてが満足いくものとなった。(石多正男)