2017年6月 

  

Classic CD Review

マーラー:交響曲「大地の歌」/ジョナサン・ノット指揮・バンベルク交響楽団(TUDOR/7202)
 東京交響楽団の音楽監督を務めるジョナサン・ノットがバンベルク交響楽団とマーラーの「大地の歌」を録音した。演奏内容の紹介の前にいくつか付記しておきたい。まず、ノットは2003年から2011年にかけてバンベルク交響楽団とマーラーの交響曲全集を完成させているが、その全集に「大地の歌」は入っていない。また、2016年にウィーンフィルと同作品を録音しているが、それは全楽章をテナーのカウフマンが一人で歌うという異例の録音だった。ライヴでは何度か取り上げており、特にシカゴ響でブーレーズの代役を務めた際にもセンセーショナルな成功を収めており、期待が高まるなかでの今回のリリースとなった。
 今回の録音では、奇数楽章をテナーのロベルト・サッカ、偶数楽章をバリトンのスティーブン・ガットが独唱を担当している。演奏は、ノットらしい細やかな感受性が作品の魅力に様々な角度から光を当てており興味深い。バーンスタインのように個人的な感情に耽溺するのでもなく、ベルティーニやインバルのように音響を整然と整理するのともまた違う。作品が本来持っている性格でもあるのだが、もっと曰く言い難い多義性をそのまま音楽にすることに成功している。この「多義性」は、マーラー独特の和音の使い方からだけではなく、スコアの指示からも様々に指摘できる。例えば、第一楽章、第一部の“Dunkel ist das Leben, ist der Tod”。第一部では、全体への指示は“Sehr ruhig(とても穏やかに)”であるが、独唱は“sehr getragen(とても重々しく)”となっている。テクスト上のこの分裂がこの録音では巧みに生かされている。同じく第二部での同歌詞には、独唱への指示がなくなり全体がSehr ruhigとなり変イ長調に穏やかに解決する。また、第二節のみ解決直前の音が半音下げられており、この「外れた感」をサッカは巧みに表現している。「猿」の叫びを経て第4部。今度は言語による指示がいっさいなくなり、調性が確定できなくなり減7でドスンと立ち消える。ノットはこれらの指示を繊細でしなやかな響きを駆使し巧みに表出している。しかし、実は第4部では、独唱のレガートも削除されている。ロベルト・サッカがここにも拘りを見せてくれればノットが目指す多義的な音楽像はより鮮明になったであろう。
 音楽が明るくなる第3〜5楽章も素晴らしい。第3楽章冒頭のカラフルな木管、滑稽な泥酔にふと哀感が忍び込む第5楽章。終楽章「告別」は最後のハ長調に転調する箇所が聴きものだ。混沌の中に光が差し込んでくるようにクレシェンドし、光の中で満ち足りたように終結する。クレッシェンドした後の“Langsam ppp!”、“Ohne Steigerung”の指示が驚くほど内容的に響く。謎を残してハ長調の第3音「E」に収斂してゆくこの終結は、終わりなのだが希望の一歩であり、諦めであると同時に静かな和解なのだと実感させてくれる。柔和な笑みを湛えて息絶える。なんという甘美な音楽だろう。ノットはまだ東京交響楽団で「大地の歌」を指揮していない。いずれ、相応しいソリストとの共演を調整したうえで極めつけの「大地の歌」を東京のファンに披露してくれるだろう。待ち遠しい。(多田圭介)

Classic CONCERT Review【オーケストラ・協奏曲(ピアノ)】


「サッシャ・ゲッツェル 読売日本交響楽団 ユリアンナ・アヴデーエワ(ピアノ)」(4月21日、東京芸術劇場コンサートホール)
 今年3月まで神奈川フィルの首席客演指揮者を務めたゲッツェルが読響と初共演。骨太な指揮で、ウェーバー歌劇「魔弾の射手」序曲コーダは強烈なインパクトがあった。
 いいピアニストに共通しているのは「ピアノだけが鳴っている」という感覚を覚えること。この夜のユリアンナ・アヴデーエワの演奏がまさにそうだった。グリーグのピアノ協奏曲冒頭は、音に濁りがなく力強い。全身を効率的に使って打鍵している。透明感と叙情性のあるアヴデーエワのピアノはグリーグによく合っていた。アンコールのショパン「ノクターン第20番」(遺作)が素晴らしかった。特に中間部の繊細さと、天に昇るように立ち消えていく終結部の最弱音に感動した。宝石の輝きのようなショパンだった。
 ドヴォルザーク交響曲第7番は、「魔弾の射手」以上に骨太で、荒々しくダイナミックな演奏だったが、それがドヴォルザークらしい響きとして感じられた。(長谷川京介)

写真:サッシャ・ゲッツェル(c)Ozge Balkan
ユリアンナ・アヴデーエワ (c)Harald Hoffman

Classic CONCERT Review【オーケストラ・協奏曲(フルート)】

「ピエタリ・インキネン 日本フィルハーモニー交響楽団 ブラームス・ツィクルスII」(4月22日、横浜みなとみらいホール)
 インキネンのブラームスがやっとわかった気がした。ツィクルス第1回はオーチャードホールで交響曲第3番と4番を聴いた。癖のないやわらかな響きだが、少し大人しすぎるのではないかと思った。今日横浜みなとみらいホールで交響曲第2番を聴くと、ホールの音響の良さも手伝って、内声部が豊かでバランスの良いブラームスとして聞こえてきた。コーダはアッチェランドで煽る指揮者が多いが、インキネンはテンポを保ち、落ち着いた表情で締めくくった。
 情熱的な高揚感や興奮とは無縁の正統的なブラームスだ。1曲目「悲劇的序曲」も同じで、悲劇性をことさら強調することなく、純音楽的にバランスよくオーケストラを鳴らした。
 ニールセンのフルート協奏曲は、首席の真鍋恵子がソリスト。彼女の音色はとても温かい。『フルートとトランペットが、しばしば不思議なほど、そのオーケストラ全体の色彩を決める』とは芥川也寸志の言葉だが、真鍋のフルートは日本フィル特有の音色に共通するものがあると思う。この曲は、クラリネット、バス・トロンボーン、ファゴット、ティンパニとフルートの対話が面白いが、日本フィルの各奏者は見事だった。(長谷川京介)

写真:ピエタリ・インキネン(c)日本フィル

Classic CONCERT Review【オーケストラ・協奏曲(フルート)】

「東京シティ・フィル第306回定期演奏会」 高関健指揮 (5月10日、東京オペラシティコンサートホール)
武満徹:3つの映画音楽
アルバン・ベルク:ヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン:堀米ゆず子)
ブルックナー:交響曲第3番ニ短調(1877年第2稿)

 冒頭、武満の映画音楽に示された多彩な才能、ジャズやワルツの技法、また暗い表現を快く楽しんだ。非常に分かりやすい音楽の後、20世紀最高の協奏曲の一つ、そしてもっとも難解な曲の一つベルクのヴァイオリン協奏曲を聴いた。プレトークで高関が独奏も難しいが、堀米がぐいぐい引っ張ってくれるので、たのもしい。でも、オケも難しいので練習を積んだという話をしていた。また、ベルクが長生きしていたらオーケストレーションは変えたのではないか、というのもオケのせいで独奏が聞こえない箇所があると自身の作品に対する解釈を述べていた。高関のプレトークはいつも的を得ている。先入観を持って聴かない方がいいのかもしれないが、鑑賞の参考になる。堀米の独奏は非常に説得力があったが、今回もオケとの競演に関しては高関の言葉通りの演奏だった。
 無調音楽を聴いた後のブルックナーの響きはなんとほっとさせられる美しさであることか。高関もオケも自信がみなぎっていた。フルート、ホルン、トランペットなどの独奏が見事で、弦の柔らかい響きと快く溶け合っていた。1877年の第2稿がブルックナーの本来の意思に一番近い版だというが、よく演奏される第3稿(1889年、ノヴァーク版)よりもいい意味で洗練されていなくて、これもいいと感じさせられた。その表現も納得できるものだった。
(石多正男)

Classic CONCERT Review【オーケストラ・協奏曲(ヴァイオリン)】


「高関 健 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 堀米ゆず子(ヴァイオリン)」(5月10日、東京オペラシティコンサートホール)
 ブルックナー交響曲第3番の版について、高関はプレトークで『第4番・第5番を書き上げ、作曲技法も成熟していた時期に改訂、取り巻きの手の入らない第2稿を採用した』と語った。
 演奏は堂々として揺るぎない重厚なもの。流れは首尾一貫、夾雑物がなく爽やか。シティ・フィルは最初やや粗かったが、第2楽章中間部ミステリオーソの第2主題から柔らかさが出た。コンサートマスターは荒井英治。弦が東京フィルを思わせる音になるのが興味深い。高関は第3楽章スケルツォをじっくり進め、力を蓄えた。第4楽章は奥行きと厚みがあり、コーダは重心の低い充実した響きに満ちていた。
 前半は武満徹の「3つの映画音楽」とベルクのヴァイオリン協奏曲(ソリストは堀米ゆず子)。堀米のベルクは素晴らしいの一言。緊張感がみなぎり、叙情性も申し分ない。高関とシティ・フィルは楽曲を知悉する堀米との綿密なリハーサルが生き、緻密な演奏を繰り広げた。惜しむらくは、終結部で、シティ・フィルにもうひとつ精度が不足したことだが、最も難しい箇所であることは確かだ。(長谷川京介)

写真:高関 健(c)Masahide Sato
堀米ゆず子(c)T.Okura

Classic CONCERT Review【オーケストラ・協奏曲(ピアノ)】

「小澤征爾 水戸室内管弦楽団 マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)」(5月12日、水戸芸術館コンサートホールATM)
 小澤征爾指揮、水戸室内管弦楽団とアルゲリッチの初共演はベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番。小澤は背が少し丸くなったように見える。時々立つが、座っての指揮が多い。しかし、生まれてくる音楽は全く若々しく、エネルギーに満ちている。特に第3楽章はアルゲリッチのピアノを忘れさせるくらい強さと生命力があった。全3楽章を休むことなく指揮したことは喜ばしい。
 アルゲリッチはいつもながらの天性の音楽性が発揮され、躍動感と抒情性は健在。アンコールは、シューマンの「献呈」。拍手が終わらないうちに弾き始めたが、自在にフレーズを作っていくさまは、歌がたった今生まれたように新鮮でみずみずしい。
 前半は指揮者なしで、グリーグの組曲《ホルベアの時代より》が弦楽のみで、続いて管楽器だけでグノーの「小交響曲」が演奏された。水戸室内の弦と管を別々に味わう選曲は、気がきいている。しかし問題はその演奏にある。弦は勢いがあるもののアンサンブルが粗く、艶やかさとふくらみが感じられない。後半の小澤指揮との違いが大きかった。一方、ソロの出番も多いグノーは、協奏的な楽しさが感じられた。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【オーケストラ・協奏曲(ピアノ)】


「オンドレイ・レナルト 読売日本交響楽団 ケイト・リウ(ピアノ)」(5月14日、東京芸術劇場コンサートホール)
 2015年ショパン国際ピアノコンクール第3位入賞のケイト・リウによるショパンのピアノ協奏曲第1番は、テンポがゆったりとしている。リウが繊細な弱音を生かし、透明感ある響きをつくろうとする意図はよくわかる。ただ全体を通して、何を伝えたいのかが明確ではなかった。レナルト&読響も彼女の演奏によくついていたが、第3楽章は集中力をなくしたように見えた。一方で、リウのアンコール、ショパン「雨だれ」は素晴らしかった。リズムを刻む左手の低音のほの暗い冒頭から、中間部の闇の世界、そして変ニ長調の主題が復帰して明るい陽が射しこむコーダまで、ひとつのドラマが見事に表現された。
 レナルト指揮、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」は、巨匠の芸風を感じる。ピリオド奏法とは無縁の、16型編成によるオーソドックスな演奏だ。こういうベートーヴェンは、昨今聴けなくなった。読響は、ヴァイオリンをはじめとする弦がしっとりとして美しい。中低音弦の厚みも充分。コンサートマスターは荻原尚子。日橋辰朗を中心としたホルン群が安定。オーボエ、フルート、クラリネット、ファゴットも見事な腕前で、レナルトは読響の実力に満足気だった。(長谷川京介)

写真:オンドレイ・レナルト(c)Petr Horník

Classic CONCERT Review【オーケストラ・協奏曲(ピアノ)】


「マーティン・ブラビンズ 東京都交響楽団 スティーヴン・オズボーン(ピアノ)」(5月16日、東京オペラシティコンサートホール)
 2014年都響との英国音楽特集で、名演を聴かせたマーティン・ブラビンズが再び登場。 
 「青柳の堤」は31歳で夭折したバターワース珠玉の作品。イギリスの丘陵地帯や高低差のない小川の辺が浮かんでくるようだった。
 ティペットのピアノ協奏曲(日本初演)を弾いたオズボーンは熱演。ピアノはソロというより、オスティナート的なリズムを刻み、オーケストラの一部のように演奏する。チェレスタがフィーチャーされる個性的な作品だった。
 ヴォーン・ウィリアムズ「ロンドン交響曲」(交響曲第2番)は2013年アンドリュー・ディヴィス指揮BBC交響楽団でも聴いたが、ブラビンズ都響には似た響きがあり、4年前の記憶が鮮烈に蘇った。花火のように光り輝く金管と、やや乾いた弦の音が良く似ている。作品がそうさせるのか、ブラビンズとデイヴィスに共通した感性があるのか、実に面白い。
 第2楽章レントが最も印象深かった。ヴィオラの美しいソロを弾いたのは、名古屋フィル首席、石橋直子。ブラビンズが同フィルの常任だったことから、気心の知れた彼女を呼んだのだろう。素晴らしいヴィオラだった。(長谷川京介)

写真:マーティン・ブラビンズ(c)Benjamin Ealovega
スティーヴン・オズボーン(c)Benjamin Ealovega

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「アンドレア・バッティストーニ 東京フィルハーモニー交響楽団「チャイコフスキーの誘惑」」(5月17日、東京オペラシティコンサートホール)
 チャイコフスキーは大好きな作曲家というバッティストーニの話が楽しかった。「イタリア奇想曲」については、一番有名なテーマは今もイタリアで歌われている民謡だと、自分で歌うので大受け。その演奏は何と勢いがあって、明るく楽しいことだろう。
 後半のチャイコフスキー交響曲第5番の前に「質問コーナー」があった。『いつもジャンプしますが、指揮台から落ちたことはありませんか?』については、『落ちたことはないが、壊したことはある。ラーメン食べ過ぎかな』に会場爆笑。『動きの激しい指揮はなぜ』は、『感じた音楽をオーケストラと聴衆に伝えるための自分のやり方』と真面目な回答だった。
 チャイコフスキーの5番もエネルギーのほとばしる元気いっぱいの演奏だった。しかし、ただ明るいだけではなく、冒頭の「運命」の主題は遅いテンポで緊張感があった。また第1楽章第2主題のたっぷりとした歌わせ方にも、バッティストーニの非凡さを感じた。
 アンコールのドヴォルザーク「スラヴ舞曲第8番」では、最後に指揮台から飛び降りて演奏を終わらせた。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「エサ=ペッカ・サロネン フィルハーモニア管弦楽団 マーラー交響曲第6番《悲劇的》」(5月18日、東京オペラシティコンサートホール)
 宇宙的ともいうべき壮大なマーラーだった。「悲劇的」というイメージよりも、もっとポジティブで、マーラーの構想した世界を限りなく広げ、規模を拡大した演奏だ。作曲家サロネンの透徹した眼が作品を再構築しており、細部まで明晰で全てが見通せる。しかも、決して機械的で冷たいということはない。常に人間的な温かみや情が感じられ、どこかに救いがある。「圧倒的」という言葉が、これほどふさわしい演奏はない。
 サロネンもずば抜けているが、フィルハーモニア管には、マーラーを得意とした歴代指揮者たち、クレンペラー・バルビローリ・シノーポリが植え付けたDNAが残っているのではないだろうか。
 第1楽章冒頭から弦の張りの強さ、金管の圧倒的な輝きが別格。ティンパニの迫力には度肝を抜かれた。第3楽章は情感豊かで感動を覚えた。第4楽章は、まさに宇宙、めくるめく世界。頂点のハンマーの衝撃は言葉がない。最後の強烈な一撃のあと、タクトがゆっくりおろされ、徐々に音が消えていく。長い静寂が素晴らしい。怒涛のブラヴォにコンサートマスターの目は潤んでいた。ソロ・カーテンコールは2度。
 1曲目、ストラヴィンスキー「葬送の歌」は、師のリムスキー=コルサコフの追悼のために書かれた。2015年に楽譜が発見され、今回が日本初演。後期ロマン派を思わせる12分ほどの荘重な作品で、演奏後サロネンは楽譜を高くかざした。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー 読売日本交響楽団 ブルックナー交響曲第5番(シャルク版)」(5月19日、東京芸術劇場コンサートホール)
 オーケストラの背後に一列に並ぶバンダの金管と、シンバル、トライアングルの奏者が一斉に立ち上がり、第4楽章終結部のオーケストラの総奏に参加する。その音の大伽藍は、シャルク版ならではの大迫力。ブルックナーと言うよりも、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」を聴いているようでもあった。
 ロジェストヴェンスキーの指揮はテンポが遅く、普通なら60分ほどで終わるところを80分近くかけた。おおよそのタイムは第1楽章26分、第2楽章19分、第3楽章12分、第4楽章22分。第1、2楽章は通常それぞれ20分、16分前後なので、その遅さがわかる。
 ロジェストヴェンスキーのブルックナーは、「絶対音楽的」だと思う。思考や情感の入る余地が少なく、構造物、響きとしてのブルックナーを聴いている気がした。違和感はあるが、音楽としては面白かった。長い指揮棒の最小の動きにより瞬時に読響のダイナミックや表情が変わる。読響の集中度の高い演奏から、ロジェストヴェンスキーに対する尊敬の気持ちがはっきりと伝わってきた。(長谷川京介)

写真:ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー(c)読響

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「アンドレア・バッティストーニ 東京フィルハーモニー交響楽団 ストラヴィンスキー《春の祭典》ほか」(5月21日、オーチャードホール)
 《春の祭典》は、楽譜を深く読み込み、作品の全体像を正確につかむバッティストーニの卓越した能力に改めて舌を巻いた。激しいが、誇張されたものではなく、作品本来が持つエネルギーや土俗性をストレートに表現したきわめて正統的な演奏と言うべきだろう。
 冒頭のファゴットの独奏はゆったりと始まり、「春の兆しと乙女たちの踊り」も重心が低く安定。激しさが増す「誘拐」からテンポが落ちる「春のロンド」への移行も余裕がある。懐の深いバッティストーニの指揮は、第1部最後の「大地の踊り」の狂乱でもぶれることなく、オーケストラを完璧にコントロールしていた。
 第2部もこの姿勢は変わらず、「選ばれし乙女への賛美」の変拍子も、最後の「生贄の踊り」も、熱い中にも常に冷静なバッティストーニのバトンは冴えに冴えていた。
 アンコールは外山雄三の《管弦楽のためのラプソディ》より 八木節。日本人指揮者よりもリズム感があり、バッティストーニが盆踊りのように両手をあげ左右に動かす姿はなんとも楽しかった。
 前半は、ヴェルディ歌劇《オテロ》第3幕より舞曲と、ザンドナーイ歌劇《ジュリエッタとロメオ》より舞曲が披露された。いずれもバッティストーニならではでの躍動感に満ちていた。(長谷川京介)