2015年11月 

  

Classic CD Review【室内楽曲(弦楽四重奏)】


「モーツァルト:弦楽四重奏曲 第15番 ニ短調K.421、第19番 ハ長調「不協和音」K.465、ディヴェルティメント ヘ長調K.138 / エベーヌ弦楽四重奏団(ピエール・コロンベ〈Vn〉、ガブリエル・ル・マガデュール〈Vn〉、マチュー・ヘルツォク〈Va〉、ラファエル・メルラン〈Vc〉)」(ワーナーミュージック・ジャパン、エラート / WPCS-13266)
 エベーヌのこのモーツァルトには恐らく賛否両論があるだろう。特に最初のニ短調、K421のクァルテットは凄まじい迄の印象を聴く人に植え付けてしまう。第1楽章第1主題の乾ききった表現は、一般のモーツァルト・ファンにとってここは怒りとも虚無的とも取れるかも知れない。最初の2つの楽章にはこのムードが横溢している。しかし第3楽章のトリオではこの曲の中で終楽章最後の第4変奏と共に明るさを感じるがこれは諦めか。そして2つのクァルテットに挟まれたK.138のディヴェルティメントは前曲とは真逆の大変颯爽とした演奏ではある。最後の「不協和音」は3曲中最も中庸的な演奏である。巧者エベーヌはこのアルバムで可成り多面的な顔を覗かせる。(廣兼 正明)

Classic CD Review【室内楽曲(ピアノ五重奏)】

「ブラームス:弦楽四重奏曲 第1番 ハ短調 作品51-1、ピアノ五重奏曲 ヘ短調 作品34 / エベーヌ弦楽四重奏団(ピエール・コロンベ〈Vn〉、ガブリエル・ル・マガデュール〈Vn〉、マチュー・ヘルツォク〈Va〉、ラファエル・メルラン〈Vc〉、山本亜希子〈ピアノ〉」(ワーナーミュージック・ジャパン、エラート / WPCS-13265)
  このブラームスは前項のモーツァルトと較べ、斬新さは影を潜め陰鬱さを持つブラームスの音楽を彼等は驚くべき表現力と限界を感じさせないテクニックを駆使して作曲家の神髄を見事なまでに捉えている。特に第1番のクァルテットに於いては現存するこの曲のCDの中でもトップクラスの演奏に入ると言えよう。
 これを聴くと2004年に難関、ミュンヘン国際音楽コンクール、弦楽四重奏部門で第1位を獲得したことは十二分に納得出来る。後半のピアノ五重奏曲はピアノにパリ在住のピアニスト山本亜希子と組んでの演奏だが、弦楽四重奏曲と比較すると今一つの感が残る。(廣兼 正明)

Classic CD Review【器楽曲(ヴァイオリン)】

「《雨の歌》ライヴ モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ第40番 変ロ長調 K.454、シューベルト:ヴァイオリン・ソナタ イ長調 D574、ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ 第1番 ト長調 作品78 《雨の歌》、ドビュッシー:亜麻色の髪の乙女 / イツァーク・パールマン〈ヴァイオリン〉、エマニュエル・アックス〈ピアノ〉)」(ユニバーサル ミュージック、ドイツ グラモフォン / UCCG-1714)
  庄司紗矢香が選んだ伴奏者は歳が60も上のボザール・トリオの創設者、メナヘム・プレスラー(90歳)である。いくら世界的に長寿社会に成っているとは言え、伴奏は重労働である。だからこの組み合わせを知ったときには本当に驚いた。さて実際にこのCDを聴いたときにはそれ以上に驚いてしまった。それは全体の演奏が実に暖かく、まるでおじいちゃんが実の孫と合わせているような雰囲気と、音の解れなどが全く無いに等しい完璧な音楽を聴かせてくれたからである。そして庄司もこの素晴らしい音楽と人生の大先輩に途轍もなく大きな教えを受けたことだろう。今回の庄司の演奏を聴くにつけ、彼女の音楽が今までより遙かに深みのある音に成長したことが分かる。それにしてもプレスラーの伴奏は流石としか言いようがない。(廣兼 正明)

Classic CD Review【器楽曲(ヴァイオリン)】

「フォーレ&R.シュトラウス:ヴァイオリン・ソナタ / イツァーク・パールマン〈ヴァイオリン〉、エマニュエル・アックス〈ピアノ〉)」(ユニバーサル ミュージック、ドイツ グラモフォン / UCCG-1716)
 まだ若いと思っていたパールマンも今年愈々古稀を迎えた。その前年2014年4月に16年振りのソロ・アルバムであるフォーレ:ヴァイオリン・ソナタ第1番 イ長調 作品13とR.シュトラウス:ヴァイオリン・ソナタ 変ホ長調 作品18 TrV 151の2曲をレコーディングし、これが彼にとっての初録音となった。この2曲の名曲がこの時点で初めてのリリースだったとは何となく信じられない。両曲とも往年の素晴らしいボウイングから生み出される彼独特の美しすぎる音に衰えはないが、やはり彼なりの枯淡の境地に足を踏み入れたようにごく僅か感じられる所もある。しかしこれは自然の成り行きであり、曲の内容から考えてもこれで良いのではないかと思う。(廣兼 正明)

Classic CONCERT Review【オーケストラ(協奏曲)】

「オリヴァー・ナッセン指揮 東京都交響楽団」(9月24日、東京文化会館)
 190センチはあろうかという巨体で 杖をつき登場したナッセンは椅子に腰かけて指揮をした。作曲家としても知られた彼の指揮は、作品に今生まれたばかりのような新鮮さを与えていた。 
 ミャスコフスキーの交響曲第10番はエネルギッシュで緊張感を保った音に充実感を味わった。
 ナッセン自作のヴァイオリン協奏曲のソリスト、リーラ・ジョセフォウィッツはナッセンとこの曲を録音しており、作品を知悉した超絶テクニックで魅了した。ジョセフォウィッツのアンコール、エサ=ペッカ・サロネン「学ばざる笑い」は軽妙洒脱で楽しい作品。
 後半のストコフスキー編曲のムソルグスキー「展覧会の絵」はラヴェル編曲と較べると、より土俗的民族的に聞こえる部分(「キエフの大門」の「聖歌」の響き)と、ストコフスキーの外連味がとことん出た部分(「カタコンベ」のワーグナー的な響き、「鶏の足の上に立つ小屋」の金管のグリッサンド)があるが、ナッセンはそうした特徴を深く掘り下げて再現するので、むしろラヴェル版よりも心に響いてくるものがあった。特に終曲「キエフの大門」のコーダの深みのある響きは感動した。
 定期では珍しいアンコール(弱音器付き弦のトレモロによる「プロムナード」からフルート3本による「卵の殻を付けた雛の踊り」まで)は、ナッセンが急に決めたようで、譜面の確認にあわてる楽員の姿が微笑ましかった。(長谷川京介)

撮影:写真:堀田力丸/提供:東京都交響楽団

Classic CONCERT Review【オペラ】

「日韓国交正常化50周年特別企画 オペラ『ザ・ラストクイーン』—朝鮮王朝最後の皇太子妃」(2015年9月27日、新国立劇場・中劇場)
 このオペラの内容を簡単に記せば、朝鮮王朝最後の皇太子妃となった李方子妃(リ・マサコ)の生涯を描き、彼女は政略結婚で日本の皇族から韓国に渡る。作曲は東京音大卒の若手、孫東勲(ソン・ドンフン)であり、オペラ作曲家として楽壇に本格的にデビューを果たすとのこと。編成はソプラノ、アルト、テノール、バリトンのコーラスだが4名。楽器群はピアノ、ヴァイオリン、チェロ、フルート、打楽器の5名である。緩急法や音色的な配慮も音楽の中に美しく盛り込んでいて、朝鮮半島のリズムや日本のメロディーも時折聴こえ、この作曲家は作品全体のイメージをしっかりとつかんでいるように感じられた。
 それにしても今回のオペラの初演は、田月仙(チョン・ウォルソン)の情熱と意欲がなければ実現しなかったであろう。彼女が企画・台本・主演(李方子役)・音楽監督なのである。田月仙は2015年外務大臣表彰を受賞し、デビュー当時から日本に韓国の歌を紹介するなど、日韓文化交流の中心人物の一人として活躍するソプラノ歌手。登場人物は李方子妃と、バレエダンサー(李殿下の化身役)の2名である。
 田月仙の芝居が良く、筆者には詳しくはないが、所作の決まりなど風格のあるものであった。バレエダンサー(相沢康平)の動きが伴うと、よりオペラの内容が理解でき、見ていて美しい舞台になっていた。田月仙の表現には、暗示や思わせぶりがなく、ごく自然に歌い上げ、豊かな情感の陰影、情熱の高揚を蔵しており、特に第8景の〈二つの祖国〉「私の大切な 二つの祖国 私が生まれ育った国 私に愛を授けた国」では、彼女は李方子妃との考え方と同じで、はっきりとした主張で歌い通したのではないだろうか。
 日本と韓国はかつて「最も近くて遠い国」と言われてきた。今だに両国の関係はぎくしゃくとしているのが現状である。朝鮮の土となった日本人、李方子妃のことはオペラで初めて知った。私が知っている人は、浅川巧である。彼は朝鮮の民芸の中に優れた民族文化の美を見つけ出したことで有名である。柳宗悦も失われていく朝鮮美術工芸品を所有した。真の文化交流が日本と韓国の関係を豊かにするのである。今回のオペラ公演はその意味でも非常に有意義な企画であった。両国の歴史文化を知ることも日韓の交流には大切であり、それなくしては真の友好はないのである。(藤村貴彦)

Classic CONCERT Review【室内楽】

「道往寺 月見法要コンサート 道往寺境内・本堂」(9月27日)
http://www.dououji.com/
 月にまつわる名曲のコンサートと題され、フルートとハープの二重奏であり、フルートは中瀬香寿子、ハープが堀米綾である。両者の演奏を聴いて最初の感じたことは、技術上の問題ばかりに焦った痕跡が見えず、自然な和合の気分が醸成されていて、親しみを覚えて聴くことの楽しさがあったことである。中瀬のフルートは、ふくらみのある清楚な優しさがあり、二宮玲子が編曲した「荒城の月に寄せるバラード」は聴き手を一挙にこの編成の世界に誘うのに十分な力を持っていた。二宮玲子の編曲もよく、誰でもが知っているこの旋律を抑制の効いたフルートとハープで、オステイナート的な手法で仕上げ、今まで歌ったり聴いたりしてきた「荒城の月」とは、一味異なった世界を垣間見せた。フルートとハープによる二重奏の美しさ、一度聞いたら忘れることはできない。
 堀米綾は、大河ドラマ「八重の桜」、紅白歌合戦、他CMなどレコーディングに参加し、様々なスタイルの音楽を演奏するハープ奏者である。ハープはオーケストラの編成の中では時折聴き、直接親しみを持つ楽器ではなかった。堀米で聴くハープは美しい音であり、ドビュッシーの「月の光」や、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」などは、常に日常の雑音に悩ませられている耳が、一挙に快癒したのではないかと思われた。このハーピストは、どんな難曲を弾いても、聴き手を音楽の中に引き込んでゆくのではないだろうか。
 今回のコンサートでは、初演曲があったので紹介しておく。二宮玲子作曲「月光天女」〜インド古謡によるは、インド旋法を用い、瞑想的であり、日本ではめったに見られない風景を提示する。インド的な表情はフルートとハープにふさわしく、今後もこれらのシリーズを継続してもらいたい。
 ビクセンの天体望遠鏡で、月観測の時間もあったが、肉眼で見るよりも月がくっきりと見え、地球と同じように生物がいるような気がしたのであった。
 それにしても道往寺本堂の音響は素晴らしい。今後、お寺で行うコンサートも増えていくのではないだろうか。先行きの見えない今後の日本、死者も静かに音楽に耳を傾けているのである。永遠の時間「とき」の流れの中で・・・・。(藤村貴彦)

Classic CONCERT Review【オーケストラ(協奏曲)】

「パトリチア・ピツァラ アリーナ・イブラギモヴァ 東京交響楽団」(9月27日、ミューザ川崎シンフォニーホール)
 ポーランド出身の女性指揮者パトリチア・ピツァラの日本デビュー。その指揮は明解で、女性らしい繊細さもある。指揮姿や入退場する仕草もきびきびとして可愛らしい。
 メンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」は霧に包まれたようなミステリアスな雰囲気があり、最初にファゴットとチェロ、再現部でクラリネットに出る主題が伸びやかに歌われ美しい。
アリーナ・イブラギモヴァの弾くモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番は、モーツァルトがクリスタルの彫像になったような完璧で美しい造形をもつ。超微細なデジタル画像のように精確なきめ細やかな音は、一音一音が磨き上げられている。
 特に素晴らしかったのが、第2楽章展開部のピアニシモの天国的な美しさと、第3楽章のト短調アンダンテとなって曲調が変わる部分。いずれも極上のコロラトゥーラを聴いているようだ。ピツァラと東響は細やかにイブラギモヴァに応えていた。
ベートーヴェンの交響曲第7番は爽やかに駆け抜けるような指揮。どの楽器、声部も明瞭に聞こえる。リズム感も良く、メリハリがあって流れも良い。東響のメンバーも気持ちよさそうに弾いている。もう少し力強さもほしいが、第4楽章では重い響きも出ていた。
 終わらない拍手にピツァラは急遽アンコールを指示。知らされていなかった楽員は慌てていたが、コンサートマスターの大谷康子が演奏箇所を告げ、第4楽章コーダが演奏された。ともあれピツァラのデビューは大成功だろう。そして今更ながらイブラギモヴァの勢いと凄さを知らされたコンサートだった。(長谷川京介)

写真:(c)青柳聡

Classic CONCERT Review【オーケストラ(協奏曲)】


「ベルナルト・ハイティンク ロンドン交響楽団 マレイ・ペライア」(9月28日、サントリーホール)
 ハイティンクとペライア。音楽的にも性格的にも二人は共通する点が多い。
誠実で謙虚に作曲家に向かい合う。誇張やハッタリとは無縁。音楽の細やかなニュアンスを大切にしながら、最も美しく響く音を探って行く。 
 モーツァルトのピアノ協奏曲第24番ハ短調のロンドン交響楽団(LSO)の弦の響きは上品な絹糸で織られていくような味わいがあり、そこに柔らかく美しいが土台がしっかりとしたペライアのピアノが絡んでいく。白眉は第2楽章ラルゲット後半の天に昇っていくようなピアノの響き。物足りない点を挙げれば第3楽章で明るい旋律のあとハ短調で主題が戻る5番目の変奏部分。ピアノにもう少し悲愴味が出てもよかった。第3楽章の自由に羽ばたくようなカデンツァは素晴らしかった。ペライアの自作だろうか。
 ハイティンクの穏やかな指揮はマーラーの交響曲第4番に向いている。特に第3楽章に心を奪われた。LSOの弦はヴァイオリンに加えて、ヴィオラとチェロそしてコントラバスの中低音にコクがあって響きが豊か。第1主題のチェロにヴァイオリンがからむ部分を始め、後半の壮大なクライマックスのあとの低音の弦とハープが醸し出す天国的な響きはこの夜最も感動した。
 終楽章でのソプラノのアンナ・ルチア・リヒターの歌唱は透明な声だがしっかりとした骨組みができておりホールによく響いた。彼女が何度目かのカーテンコールに応えたとき、楽譜に手を置いたあと天を指さす仕草をしたのが印象的だった。拍手は天国のマーラーにもどうぞと言いたかったのかもしれない。(長谷川京介)

写真
ハイティンク:(c)Todd Rosenberg
ペライア:(c)Nana Watanabe

Classic CONCERT Review【オーケストラ(協奏曲)】


「NHK音楽祭2015 ベルナルト・ハイティンク ロンドン交響楽団 マレイ・ペライア」(10月1日、NHKホール)
 9月28日のサントリーホールとは別プログラム。NHKホールは2階正面でも通路より上のブロックとなると音が遠い。
 そうした条件の悪さを考慮しても、ブラームスの交響曲第1番はマーラーの交響曲第4番の繊細な演奏に較べると平凡な演奏だったというのは言いすぎだろうか。LSOは世界の一流オーケストラらしい響きで、弦も木管も金管も安心して聴いていられるし、文句の言いようがない誠実な演奏だが、心躍るような高揚感は余り感じられなかった。
 むしろ1曲目のパーセル(スタッキー編曲)の「メアリー女王のための葬送音楽」のほうが面白かった。木管と金管、打楽器にピアノ、ハープだけの音楽だが、LSOの金管の迫力とティンパニの壁を震わすような響きが強烈な印象をもたらした。
 今夜の収穫は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を弾いたペライアで、彼がルービンシュタインのようなヴィルトゥオーゾ、巨匠ピアニストの道を着実に歩んでいることを確信した。音やタッチが美しいだけではなく、ペライアの作り出す音楽そのもののスケールが大きく、構えが堂々としており、自然体でありながら力強い。第3楽章のコーダに向かって雄渾に進んでいくペライアを見ていると、過去の巨匠に出会ったような気持になった。ハイティンクとLSOもペライアに引っ張られているように感じた。本当に偉大なピアニストだと思う。(長谷川京介)

写真
ハイティンク:(c)Todd Rosenberg
ペライア:(c)Nana Watanabe

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「高関健指揮 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 第292回定期演奏会」(10月3日、東京シティコンサートホール)
 ピアノ:伊藤恵  モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番ハ短調KV491、ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調
 伊藤のピアノはオケとのアンサンブルが楽しかった。第2楽章は特に美しかった。ただ、ハ短調のデモーニッシュな表現がもっと強く出てくれればなと思った。
 交響曲第10番はショスタコーヴィチ!と言ってしまえば、それまでだが、これほど快く、高らかにオケを鳴らしてくれた高関はさすがだ。冒頭の弦から説得力があった。クラリネットのソロをはじめ木管・金管など、どの管楽器もよく前面に出て聴かせてくれた。ホルン6本のユニゾンも非常に説得力があった。第3楽章はスケルツォと緩徐楽章の性格を併せ持つが、その曲想の表現は素晴らしかった。
 なお、東京シティ・フィルは開演前にロビーでプレ・コンサートを、またホールでは指揮者によるプレトークを開いているが、これも好感が持てる。(石多正男)

Classic CONCERT Review【オーケストラ(協奏曲)】

「アフタヌーンコンサート 円熟の時間(とき)清水和音&東京ニューシティ管弦楽団」(10月3日、東京芸術劇場コンサートホール)
 清水和音はデビューしてからおよそ35年たち、2014年から2018年までの5年間、年2回、新たなリサイタル・シリーズ「ピアノ主義」では、様々な楽曲に挑んでいるという。清水和音の演奏は、豊富なピアノ的魅力を備えているという点で、重々しいたっぷりとした強音から、微妙な弱音まで、音力の幅は大きい。デビューしてからは数年間、演奏活動を続け、すぐに忘れられていく音楽家が多い中で、清水はコツコツと努力していることが客席にも伝わる。
 プログラム前半のグリーグのピアノ協奏曲では、鮮やかな表現を避けている。リズム、テンポ、フレージングに派手さがなく、それでいて聴き手を音楽の中に誘い込むのである。特に夢のような第2楽章から、切れ目なく続く第3楽章が印象に残り、線の明快な表現で、どの楽想も生き生きとしていた。
 プログラムの後半はチャイコフスキーのピアノ協奏曲。この作品はコンサートでこれまで数多く聴いてきたが、大胆な表情を与えて力強く押してゆくピアニストが多い。それに対して、清水は名人芸的演奏への憧れを前面に出さず、ピアノをより美しく豊かな音で鳴らすほうに気を配っているような感じがした。それは前半のグリーグと同じである。それでいて、清水のグリーグやチャイコフスキーは、どの楽想も生命感を持って動くのである。清水の円熟はそこにあるのではないだろうか。
 プログラムの最初に内藤彰の指揮で、ムソルグスキーの交響詩「禿山の一夜」が演奏されたが、管弦楽の能力をフルに発揮した力強い演奏であった。東京ニューシティ管弦楽団は確実に進歩をしている。このオーケストラを聴いて間もないが、これからも楽しみである。(藤村貴彦)

Classic CONCERT Review【ピアノ】

「ピーター・ゼルキン」(10月5日、トッパンホール)
 今回の来日公演のためピーター・ゼルキンが使用した時代もののニューヨーク・スタインウェイ(1970年代製造)はくすんだ色合いの塗装で、上蓋(大屋根)の裏側の補強や突き上げ棒の形もヴィンテージの味わいがある。さらに調律は1/7シントニックコンマ・ミーントーンで行われている。
 ミーントーン(中音全律)とは音楽中辞典によれば、『7世紀から18世紀にかけて多くの地域で使われた、長3度音程の響きを重視した音律。全音を均等化する。』とあるが、聴いた感じで言うと独特のコブシのようなもの、音の震え、ヴィブラート、ゆらぎを感じる。音は確かにスタインウェイだが、どこかフォルテピアノの響きに似ているとも言える。
このピアノで弾くゼルキンの演奏が何と心の奥深くまで入ってくることだろう。それは過去にタイムスリップしてロウソクの灯りの下で作曲家自身が弾いている光景を目の当たりにするような演奏、温かく人肌に触れるような音楽だった。
 バッハ以前の作曲家(スウェーリンク、ブル、ダウランド、バード)の作品から始まったプログラムだが、最も感動したのはやはりベートーヴェン、モーツァルト、バッハだった。
 ベートーヴェン後期のソナタ第30番の終楽章の変奏の素晴らしさをどう形容すべきか。特に第4変奏と第6変奏の心の襞に沁みてくるような演奏は、たぶんベートーヴェン自身の演奏もこうだったのではないか、と思わせるものがあった。ゼルキンが鍵盤に指を押し込むときに見せる指の震えは、実際に音のゆらぎとして現れる。それはまた、ひとつひとつの音に魂を込めているようであり、最後にもう一度静かに主題が鳴らされたときには涙で目が曇った。
 モーツァルトのソナタ第8番もフォルテピアノを思わせる響きが聴き手をモーツァルトの生きた時代に誘う。ゼルキンの演奏には生身のモーツァルトの感情を素のままに差し出すような生々しさがあった。
 J.S.バッハのイタリア協奏曲こそゼルキンのピアノに最適の作品だろう。第2楽章アンダンテの右手が美しく歌う旋律に対し、左手のバッソ・オスティナートの温かく重く沈む低音のコトラストはこうしたピアノだと味わいが素晴らしい。
 アンコールに弾かれたゴルトベルク変奏曲から「アリア」はこの夜最高の贈り物だった。優しく温かく慈愛に満ち、深い。もうこのまま終わってほしいという気持ちだったが、拍手は収まらず3声のインベンションから第5番が披露された。
 ここ数年聴いたピアノ・リサイタルの中でも、最も心に深く刻まれたもののひとつであることは間違いない。(長谷川京介)

撮影:大窪道治/提供:トッパンホール

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「ハンヌ・リントゥ 新日本フィル シベリウス生誕150年記念交響曲全曲演奏会第1回」(10月7日、すみだトリフォニーホール)
 長身にぴったりとしたスーツで身を固めたハンヌ・リントゥの指揮は、ダイナミックで野性的。驚いたのはたくましい芯のある一本の線にまとまったヴァイオリン群の響き。新日本フィルがこれほど骨っぽい音を出すのを聴くのは初めてかもしれない。コントラバスも太く重い音が出ていた。ヴィオラとチェロも締まった音がする。金管も良く鳴っていたし、木管群もよく歌っていた。ホルンも小さなミスがあったが健闘していた。
 リントゥの指揮は新日本フィルから持てる力のすべてを引き出すような要求の高さがあり、新日本フィルを煽りに煽る指揮ぶりは、見ていてもスリルを覚えた。
 この日は第3番、第4番、第2番が演奏されたが、第4番に最も感心した。ふだん聴く演奏はミステリアスな暗い表現が多いが、リントゥの指揮は霧を晴らすように明快で、どのセクションもはっきりと明確な響きを持っており、曲の構造がすっきりとして表情にメリハリがつけられている。
 第3番も第2番も同様に、男性的で爽快な演奏だった。これだけの演奏の割には聴衆の入りがあまりよくないのはもったいない気がした。フィンランド放送響が1回、残りの2回は新日本フィルという中途半端な割り振りが人気を呼ばなかったか、あるいは日本ではシベリウスはまだ多くの聴衆の支持を得ていないのだろうか。(長谷川京介)

写真:(c) Kaapo Kamu

Classic CONCERT Review【オーケストラ(協奏曲)】

「NHK音楽祭2015 パーヴォ・ヤルヴィ NHK交響楽団 ジャン・イヴ・ティボーデ」(10月8日、NHKホール)
 ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」、ジャン・イヴ・ティボーデを迎えてのラヴェルのピアノ協奏曲、そしてベルリオーズ「幻想交響曲」というフランス・プログラム。
 3日前、マーラー「復活」で凄絶な演奏を聴かせたヤルヴィN響だが、一部楽員の入れ替えがあったとしても、さすがに疲れが溜まっているのか、リハーサル時間が足りなかったのか、やや生彩を欠いていた。
 ドビュッシーは冒頭のフルートのニュアンスに富んだ幻想的な音に期待が高まるが、ホルンや弦に艶がない。この曲ではフルートのみが目立っていた。
 ティボーデはラヴェルの協奏曲を完全に手のうちに入れており、第1楽章カデンツァや第2楽章で、トリルやアルペッジョ、グリッサンドなど華麗なテクニックを見せるが、N響はアンサンブルが粗く、ピアノとの一体感がなかった。
 ベルリオーズ「幻想交響曲」は、ハープ4台、対抗配置のヴァイオリン、第1楽章提示部繰り返しのほか、ホルンの強調や、「ワルブルギスの夢」での木管の思い切った表情づけなど、様々な仕掛け、試み、掘り下げをしようとするヤルヴィの意気込みを感じた。
 しかし、N響には「復活」で見せたようなスキのない集中力がなく、ヤルヴィも要所でN響を鼓舞し最大の音量を出させるが、有機的なつながりが感じられず散漫な印象になる。
 弦の響きが薄く弱く感じられたのを始め音に迫力がなかったのは、オケピットまで張り出したステージのため反響板を有効に使えなかったのでは、という知人の指摘が当たっているのかもしれない。
 あのヤルヴィとN響も人の子であり、毎回100%の出来ではないということを感じたコンサートだった。(長谷川京介)

写真:(c) NHK音楽祭2015

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「ハンヌ・リントゥ新日本フィル シベリウス生誕150年記念交響曲全曲演奏会第2回」(10月10日、すみだトリフォニーホール)
 曲目は交響詩「大洋の女神」、交響曲第6番、第1番。コンサートマスターが第1回の西江辰郎から崔文洙(チェ・ムンス)に替わり、ヴァイオリン群の響きが変化した。西江のしなやかな響きに対して崔は高音が強く出る。ティンパニも近藤高顯から川瀬達也になり切れ味が出た。どちらがいいということではなく、第1番には合っているように思えた。
 リントゥは今日もダイナミックな指揮だが、繊細なところもおろそかにしない。「大洋の女神」はフルートのきらめく響きと、2台のハープの細やかな音(リハーサルではハープについて相当細かく指示したらしい)、最後のクライマックスの弦の強靭な響きが印象的。
 交響曲第6番はメリハリがあり、スケルツォ的な第3楽章や第4楽章は金管を強烈に鳴らす。第1楽章チェロの主題も朗々と弾かせ、再現部の流れるような弦の音は爽快。第4楽章の終わり方がミステリアスでとらえどころのない曲だが、リントゥの明快な指揮で少しわかった気がした。
 交響曲第1番は名演。金管の強烈な鳴り方を始め、弦も管も音に芯がある。
 第1楽章冒頭のクラリネットを低音まできっちり吹かせる。第2ヴァイオリンの鋭い刻みと第1ヴァイオリンの思い切った主題の歌わせ方の対比、最後のピチカートの切れ味は鮮やか。第2楽章も緊張を維持し息もつかせない。第3楽章スケルツォは野性味があり、トリオの難しいホルンパートも細かく指示する。
 リントゥの指揮は熱いが頭は冷静で醒めている。第4楽章の雄大な主題が出現する場面でも、そのあとの嵐のような部分でも新日本フィルは必死に弾くが、リントゥはクールで汗一つかいていないように見える。指揮者もオーケストラと一緒に燃え上がってしまうような感情的な演奏ではなく、どこか醒めて、突き放したような指揮だが、シベリウスの屹立した音楽にはそのやり方がぴったりだと思う。
 第3回が首席指揮者を務めるフィンランド放送響を率いて11月2日にある。新日本フィルとの違いを聴くのも楽しみだ。(長谷川京介)

写真:(c) Kaapo Kamu

Classic CONCERT Review【ピアノ】

「今川映美子 パリゆかりの作曲家たちVol.1」(10月13日、東京文化会館小ホール)
 パリを訪れた人ならば、誰しもがこの街のことを、ハイネが指摘したように、民族を超えた詩の国であり、夢の国であることに気づくであろう。パリはロマン派芸術の中心地になり、多くの芸術家を暖かく迎えたのである。今川映美子はパリで影響を受けた作曲家をテーマに選び、プログラムの前半は、モーツァルト:ピアノソナタ第11番イ長調KV331「トルコ行進曲付き」、ショパン:舟歌 嬰ヘ長調、ノクターン 嬰ハ短調、スケルツォ 第4番 ホ長調。
 今川映美子の音楽は、音に対する鋭敏さと、感じたものを音に乗せてゆく時のキメの細かさがあると思う。弱音が美しく、特にモーツァルトのソナタでは第1楽章と第2楽章のメヌエットが、底光りのするような味わいを秘めた演奏であった。
 第1」回のコンサートで、今川映美子はショパンを選んだが、ショパンは多数のポーランド人のように、彼も音楽の都パリに居を定め、パリのサロンを舞台に輝かしい栄光に包まれた生活を送ったのである。もしショパンがパリに行かなかったらどうなっていたのであろうか。
 今川のショパンはモーツァルトの時にも感じたことだが、その演奏は力まかせに弾き飛ばすものではない。聴衆に静かに語りかけるような演奏であり、彼女の今まで蓄積した音楽を表現していく姿勢をとっているかのように感じられた。音の作り方や歌い方では、ノクターンの嬰ハ短調は美しく調和のとれた表現であった。
 プログラムの後半はフォーレのピアノ四重奏曲 第一番 ハ短調。ヴァイオリン・石田泰尚、ヴィオラ・鈴木大樹、チェロ・門脇大樹である。日本では滅多に優れた室内楽の演奏を聴く機会は少ないが、今回のフォーレの演奏は、高雅な叙情を奏でており、久しぶりに聴く室内楽の名演であった。
 パリは前述したように、詩の街、夢の街である。それと同時に革命の街でもあった。悲惨な光景をパリは見てきたのである。激動期に生きたパリゆかりの作曲家も多い。第2回のコンサートでは、今川映美子はどのような表現をするのであろうか。(藤村貴彦)

写真:(c) 武藤 章

Classic CONCERT Review【楽劇】


「新国立劇場 ワーグナー:楽劇《ニーベルングの指輪》序夜 《ラインの黄金》」(10月14日、新国立劇場オペラパレス)
 ワーグナーの楽劇ではオーケストラは歌手に並ぶ主役ではないだろうか。今年4月の東京春祭のヤノフスキN響の「ワルキューレ」、9月カンブルラン読響の「トリスタンとイゾルデ」は演奏会形式だったせいもあり、オーケストラの素晴らしさはワーグナーを聴いたという充実感があった。
この日の東京フィルはオケピットにあり条件は異なる。しかしそれを考慮しても、オーケストラの響きは満足できなかった。ハープ6台、ホルン8本のオーケストラは「ラインの黄金」には充分な規模だが、ホルンは序奏「生成の動機」の重層的なハーモニーにしっかりとした土台がなく、金管は全体的に音の大小だけで厚い響きが不足していた。ヴァイオリン群は薄く、コントラバスももう少し厚みがほしい。
 飯守泰次郎の指揮は、「巨人の動機」とか、各場面の展開部分ではワーグナーらしい巨大な「うねり」を作り出すが、オーケストラのパワー不足で後が続かない。この時期東京フィルは他にも公演が重なり、主要な楽員が揃わなかったこともあったのだろうか。
 歌手陣はローゲのステファン・グールドが抜きんでていた。彼は世界最高水準の歌唱を聴かせ、圧倒的な存在感と安定感を示した。ヴォータンのユッカ・ラジライネンは声量が不足しがちなところがあった。アルベリヒのトーマス・ガゼリとミーメのアンドレアス・コンラッドは好演。エルダのクリスタ・マイヤーも印象に残った。日本の歌手ではファーゾルトの妻屋秀和が健闘。
 演出はゲッツ・フリードリヒが1996年にフィンランド国立歌劇場のために行ったもので、シンプルで過激さは皆無。音楽の邪魔をしないことは良いとは言え、新鮮さはあまり感じられない。それはこの20年の間に物凄いスピードで世の中が変化しているためでもあるだろう。
来年以降、新国立劇場の「指輪」にはステファン・グールドがローゲ、ジークムント、ジークフリートで全ての公演に出演するという。これは大いに期待したい。(長谷川京介)

撮影:寺司 正彦/提供:新国立劇場

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「三ツ橋敬子指揮 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第43回ティアラこうとう定期演奏会 合唱:東京シティ・フィル・コーア」(10月17日、ティアラこうとう)
G.プッチーニ:弦楽四重奏のための「菊」(弦楽合奏版)
G.ヴェルディ:弦楽四重奏曲ホ短調(ヘルマン編曲)
G.プッチーニ:グローリア・ミサ
 三ツ橋を聴きに行った。前半の2曲は弦のアンサンブルだが、当然のことながらオペラ作曲家の作品であるため、所々で我々がよく知るプッチーニやヴェルディを感じさせてくれた。三ツ橋のイタリア・オペラ挑戦への期待が高まった。プログラム全体は演奏回数の少ない曲目で構成されたとはいえ、説得力は十分にあった。三ツ橋の右腕は非常にしなやかで優美、かつ美しい。身体はこれと対照的にきびきびした動き。小さな身体が大きく見える。
 ただ、3曲とも響きに清澄さが足りなかったように思う。また、オーケストラのアンサンブルや合唱の魅力を十分に把握しきれていないようだった。聴衆を説得するには難しい曲がそろったかもしれないが、さらにもう一歩踏み込んだ演奏が聴きたかった。オケのメンバーの反応はどうだったのか、聞いてみたいところだが、棒が指示する内容はよく伝わっていたのではなかろうか。独唱のバリトン与那城敬、テノールの与儀巧はともによく声が出ていて、きれいな響きを聴かせてくれた。
 開演前のロビーでの東京シティ・フィルメンバーによるプレ・コンサートがこの日も行われた。J.フランセの木管四重奏曲を演奏していたが、フランス現代音楽の楽しい魅力を感じさせてくれた。(石多正男)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「大井剛史指揮 ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉 ベートーヴェン交響曲チクルスⅤ」(10月25日、千葉県文化会館)
 「シュテファン王」序曲、ロマンス第1番、同第2番、交響曲第9番
ヴァイオリン:本庄篤子、ソプラノ:馬原裕子 メゾ・ソプラノ:富岡明子 テノール:小原啓桜 バリトン:萩原潤 合唱:東京音楽大学
「第九」はやっぱり素晴らしい。オケと合唱および独唱、その全体が一つになってホールと聴衆を包み込むあの壮大な響き。誰もが納得し、幸せになる。以下、プログラムの順を追って振り返ってみよう。
<シュテファン王>序曲では、フルートをはじめとする木管、金管の響きが華やか、かつ爽やかで、ニューフィル千葉の水準の高さを感じさせてくれた。<ロマンス>2曲で独奏ヴァイオリンを弾くのはこのオケのコンサートマスターを長く勤めている本庄だが、冒頭かなり緊張していたのか、ノリが悪かった。ベテランでもこんなこともあるのかと思っていたら、やがて、音は美しく、優しく響きだし、筆者はロマンスにうっとり魅了されてしまっていた。
 休憩を挟んで「第九」。非常にドイツ的な正統派の演奏という感じがした。音楽がどんどん流れて行って、全曲があっという間に終わった。終演後の大きな拍手から聴衆の満足が分かる。プレトークで大井がテンポを速めに取ったと言っていたが(筆者の入場が遅くなって聞き落としたが、これはおそらくスケルツォ楽章のことだろう)、全曲中の随所で速いなと感じさせられるところがあった。印象に残ったのはスケルツォの中間部トリオで、確かに速かった。しかし、この管のアンサンブルは楽しめた。一方、第4楽章冒頭の第1〜3楽章を否定する部分、歓喜の主題の提示、さらにテノールの行進曲は聴いていて落ち着かなかった。行進曲で独唱の小原も歌いにくかったのではないか。独唱の中ではバリトンの萩原の声がよく響いて快かった。合唱は若々しく元気があり、そしてみずみずしい声だった。時にバスが少し前に出すぎたり、アルトが弱いと感じるフレーズもあったが、声はよく出ていて納得できるものだった。
 総じて満足いくものであったが、少し物足りなかった点を一つ書けば、指揮のメリハリということかもしれない。例えば、第1楽章の再現部冒頭、ティンパニの連打をともなう第1主題の再現。ここは展開部の後を受けた有無を言わせぬ怒涛が聴きたかった。その後の第2主題の再現ではホッとさせてほしかった。その後、トランペットとティンパニがリズムを刻むところでは「前に、進め、前に」というワクワク感をもっと出してほしかった。こういった各部分のメリハリ・対比をよりはっきりさせてくれると、さらに説得力があったと思う。(石多正男)