2017年8月 

  

「戦争」とは、国家が国民に「人殺し」を強いる事だ。・・・・・池野 徹
 1945年8月15日、暑い日だった。新潟の小学校の校庭にいた。炎天下パーンという空気を裂く音が今でも耳を離れない。体操教師が生徒を並べて往復ビンタをしていた。母親が迎えに来た。「戦争が終わったのよ」と言った。私は「バンザーイ」と叫んだ。日本が勝ったと思ったのだ。神国日本は、鬼畜米英に勝つと小さいながら教え込まれていた。家に帰ると家族がラジオの前に集まっていた。玉音放送だ。そして日本は降伏して負けた事を知った。みな、黙っていた。

 小学の2年生だったが学校では朝礼が行われ、宮城方向に最敬礼。教頭が教育勅語を読み上げる。聞く態度の悪い生徒は即座に鉄拳の嵐だ。校庭では毎晩、軍事教練があり。女子供まで動員され、竹ヤリで俵を突いていた。墜落米兵を殺すためだ。田圃に掘った防空壕の隙間から見えたのは東京へ向かうB-29の飛行機の通過するも日本の高射砲が全く届かないのが解った。灯火管制をして、窓枠に黒紙を張りめぐらし、仏壇のろうそく台まで供出された。子供ながらにこれで日本は勝てるのかと思ってはいたが。新潟の田舎(妙高市新井町)に居たので、直接の被害は無かったが、広島長崎への新型爆弾ピカドンのこと、東京空襲、近くの米屋に硫黄島の崖から飛び降りる親子のポスターを見せられ、多くの日本人が殺され死んで行った事が、だんだんに解って来たのである。この戦争で日本人で殺されたのは、兵員230万人、一般国民80万人。世界では1000万以上の人が殺されたのである。大本営発表とかで国民への情報を封じ込め、特攻隊をはじめ、死ぬ事への美化を煽り、国民発揚の歌を強要されこれでもかと、国家が国民を裏切った行為は、許されるものではない。戦後72年を迎えて、日本国は、どういう形にしろ平和だった世の中を、国家の権威の名のもとに、平和憲法を、米国の押しつけと称しながら変えようとしている。

 人間の歴史的に見ても平和が続くと戦争に持っていこうとする動きが生じる。人間という動物は、バカな動物なのだ。いま、また、時の政府は共謀罪とか治安維持法をきっかけに戦争への火ぶたを切ろうとしているのだ。国家が人殺しの「殺し屋」への道へスタートしようとしている。騙されてはならない。

 こんな時代に音楽家は、ジョン・レノンや忌野清志郎のごとくプロテストミュージックで聴衆を鼓舞して音によるインパクトをアピールする状況にあると思うが。

 聖路加国際病院の日野原重明名誉院長が105歳で8月18日に亡くなった。私の恩師一水会の田中春弥の油絵展で一度お会いした事あるが、音楽療法とか、人の命と一番近いところにいる医師は、憲法を学び守るのは当然の事と熱く軽やかに述べていた。

(写真は、軍服姿の父と、母に抱かれた自分と、父の姉たち)

「レ・ミゼラブル」30周年記念公演に魅せられて(帝劇にて5月30日夜の部)
・・・・・本田浩子
 1987年の日本初演から既に30年を経たこのミュージカルは、骨太なストーリーと全編ほぼ歌で綴るステージが、今尚観客を魅了する。1980年にフランスの文豪ビクトル・ユゴーの大作「レ・ミゼラブル」を原作にアラン・ブーブリルが作詞、クロード・ミシェル・シェーンベルクが作曲したものが、まずはレコードとして世に出て、続いて同年パリで舞台化された。このレコードを聞いたキャメロン・マッキントッシュが、手直しを加えて、1985年にロンドンでの舞台化を実現させ、その際、英語詩にハーバー・クレッツマンが加わっている。

 幕が開くと、いきなり受刑者たちの歌う、「下向け! 上を見るな!」の合唱に圧倒される。バルジャン (吉原光夫) は、一切れのパンを盗んだばかりに投獄され、脱獄を繰り返した為に、19年間服役して、1815年にようやく仮釈放され、ジャベール警部(川口竜也)から、危険人物と書かれた許可証を手渡された。しかし、許可証を提示する彼にはまともな仕事もなく、宿屋も彼を拒む。行き場のないバルジャンを、温かく迎え、食事を与えたのは、一人の神父、しかし、荒み切っている彼は、教会の銀の食器を盗んで逃げる。忽ち捕らえられた彼を救ったのは、又しても神父。一番高価な銀の燭台をお忘れですね、わが兄弟よ、神の祝福をと祈る姿にバルシャンは、新しく生きることを誓う。

 時は流れ1823年、バルジャンは、マレーヌと名を変え、モントルイユ・シュールメールの市長になり、工場も経営していた。しかし、皮肉なことにそこに赴任してきた警部は、バルジャンを追い続けているジャベールだった。

 今回の演出はローレンス・コナーとジェームズ・パウエルに演出補として、エイドリアン・サーブルが加わっている。1985 年にロンドンで、コルム・ウィルキンソンを主役のジャン・バルシャンに起用した舞台は大成功、続く1987 年のブロードウェイでもコルム・ウィルキンソンか主演、観客を魅了した。日本はパリ、ロンドンに続いて1987年に日本人キャストにより、東宝主催、帝劇で上演された。その時に初めてオーディション制になり、しかも主要キャストは複数になった。大変に新しい試みであったが、これにより、出演者の熱気は増し、観客の楽しみも増えた。初演以降、再演を繰り返す度に、オーディションが行われ、数多くのスターを生み出してきた。

 因みに、今回バルジャンには、吉原光夫、福井晶一、ヤン・ジュンモが名を連ね、ジャベールには、川口竜也、岸祐二、吉原光夫、と、なれば、写真入りのプログラムを見ているだけで、今にも力強い歌声が聞こえてきそう。他に、ファンテーヌ(知念里奈、和音美桜、二宮愛)、マリウス(海宝直人、内藤大希、田村良太)、コゼット(生田絵梨花、清水彩花、小南満佑子)、エポニーヌ(昆夏美、唯月ふうか、松原凛子)、アンジョルラス(上原里生、上山竜治、相場裕樹)、テナルディエ夫婦(駒田一、橋本じゅん、KENTARO、森公美子、鈴木ほのか、谷口ゆうな)と全てに3が名を連ねており、いずれも実力者揃いで、どの組み合わせで観たらよいか、迷う。なにしろ、全編のセリフが全て歌で綴られているだけに、演者へのプレッシャーは、強いと思われるが、観客は、いつの間にか、見事な歌声に支えられた、壮大なストーリーに飲み込まれ、学生たちを応援したり、バルジャンとジャベールの対決に息を飲む。

 さて、市長にまでなったバルジャンだが、バルジャンとして捕らえられた男がいると知り、私こそ、ジャン・バルジャンと名乗り出て、再び、ジャベールに追われる身となる。しかし、不思議な縁で死の床のファンテーヌ(二宮愛)と出会い、彼女の娘コゼットをテナルディエ夫婦(橋本じゅん&鈴木ほのか)から引き取り、育てることになる。ここで、テナルディエ夫婦が歌う「宿屋の主人」は、二人の抜け目なさを歌っていて、重い物語に、一種明るさを加えて楽しい。幼いコゼットを守る為、ジャベールと対決したバルジャンは、再び逃避行を続ける。

 1832年10年後のパリ、貧しい者が苦しむ様子に、学生アンジョルラス(上山竜治)は友マリウス(海宝直人)らと共に、人々に、戦うものの歌が聞こえるかと、行きかう民衆を仲間に入れようとする。人々の中には、美しく成長したコゼット(小南満佑子)を伴うバルジャンの姿があった。偶然出会ったマリウスとコゼットは互いに惹かれ合う。パリの街は全ての人を包み込み、人々はさまざまな思いを胸に「ワン・デイ・モア」(明日こそ)と力強く歌い、観客を揺さぶり続けた一幕の幕が下りる。

 パリの街かどでは、アンジョルラスを中心にバリケードが作られるが、結局、街の人々は誰一人学生たちの仲間には加わらない。マリウスは、テナルディエ夫婦の娘、エポニーヌ(唯月ふうか)にコゼットの住まいを探してもらい、恋文を託す。マリウスへの片思いのエポニーヌは、又あたし一人、行く処もないわと寂しく「オン・マイ・オウン」を歌う。マリウスの使いを果たし、雨の中、砦に辿り着いたエポニーヌは、銃に撃たれ、マリウスの腕の中で息絶える。ジャベールは、味方と偽り学生たちの仲間になるが、ガブローシュ少年にあっけなく警部と見破られる。同じ頃、コゼットの恋人マリウスを守ろうと志願してきたバルジャンは、ジャベールの身を預かり、密かに逃がす。孤軍奮闘する学生達は「共に飲もう」と、互いを励まし、眠りにつく。一人バルジャンはマリウスを守ってと神に祈る。夜更けて、バルジャンの祈る「彼を帰して」は、客席に切々と響き渡る。一夜明けて、銃撃戦が続き、学生達は、ほぼ全滅、バルジャンは瀕死のマリウスを背負い、下水道に逃げ込む。そんなバルジャンを追い詰めたジャベールだが、バルジャンの懇願に負けて、見逃す。警部としての己の行動に混乱したジャベールは、セーヌ川に身を投げる。

 マリウスとコゼットを幸せにするには、自分が身を隠そうと決意したバルジャンは、自分の過去をマリウスに告げ、コゼットを託して去っていく。マリウスとコゼットの結婚式に紛れ込んだテナルディエ夫婦から、瀕死の自分を救ったのはバルジャンその人と知り、マリウスとコゼットはバルジャンの許に駆け付ける。しかし、もうバルジャンの命は尽きようとしていた。ファンテーヌとエポニーヌの迎える中、バルジャンは永遠の眠りにつく。このフィナーレの少し前から、私の後ろからすすり泣きが聞こえていた。確かに、ハッピー・エンドとは言い難いが、全編佳曲で彩られているこのミュージカルは、激しく、又、時に甘く切なく、心に響いてくる。

 帝劇公演は7月17日に千秋楽を迎えたが、30周年記念の熱狂は、福岡博多座で8月1日から26日まで、大阪フェスティバルホールで9月2日から15日まで、名古屋中日劇場で9月25日から10月16日までと続いていくので、「百聞は一見に如かず」是非劇場でお楽しみ下さい。

写真提供: 東宝演劇部

ブロードウェイ・ミュージカル「パレード」日本初演・・・・本田悦久 (川上博)
☆1998年のブロードウェイ・ミュージカル PARADE「パレード」が、日本で初めて上演された。1999年のトニー賞で、最優秀作詞・作曲賞と最優秀脚本賞を受賞した作品だけに、日本初演は期待された作品。

 東京公演は池袋の東京芸術劇場 プレイハウスで、2017年5月18日から6月4日まで上演された (筆者の観劇日は5月24日)。

 このミュージカルは、脚本がアルフレッド・ウーリー、作詞・作曲がジェイソン・ロバート・ブラウン、演出はハロルド・プリンスだった。
 日本版の演出は、初めてミュージカルを手掛ける森新太郎、脚本・翻訳: 常田景子、訳詞: 高橋亜子、振付: 森山開次、音楽監督: 前嶋康明。

 時は1913年、所はアメリカ南部のジョージア州アトランタ。南北戦争が終わって半世紀過ぎたが、南軍の戦没者追悼記念日には、生き残り老兵たちがパレードを行っていた。その日、13歳の白人少女メアリー・フェイガン (莉奈) 殺人事件が起こった。容疑者として逮捕されたのは、メアリーが働いていた鉛筆工場の工場長、ユダヤ人のレオ・フランク (石丸幹二) 。もう一人の容疑者は黒人で、工場の夜間警備員ニュート・リー (安埼求)。事件を早く片付けたい検事ヒュー・ドーシー (石川禅) は、市民の差別感情を利用して、レオを犯人へと仕立てあげる。これを知ったのはアトランタの新聞記者クレイグ (武田真治)、フランクを支えるのはジョージア出身の妻、ユダヤ人のルシール (堀内敬子) だけだった。

 裁判が始まると、ユダヤ人を目の敵にするワトソン (新納慎也) に操られ、南部の民衆はレオに憎しみを募らせる。工場の黒人清掃員ジム (坂元健二) の偽の証言が災いして、レオの 訴えは聞いてもらえず、判事 (藤木孝) は「有罪」判決を下す。
 パレードの日から1年、平凡な主婦だったルシール (堀内敬子) は、レオを救うために行動を起こす。レオの潔白を証明し、不利な状況を覆す為に、ジョージア州知事スレイトン (岡本健一) 邸のパーティーを訪ねる・・・・出演者は他に宮川浩、未来優希、飯野めぐみ、小野田龍之介、未来優希、秋園美緒、等スターが揃っている。

 「故郷の赤い丘」「アトランタの夢」「ここをわが家とどうして呼べる?」「映画に行こう」「貴方は彼を知らない」等の素晴らしいミュージカル・ナンバーは、2007年にロンドンのドンマー・ウェアハウスで上演された時のCDで聴いていたが、舞台を観るのは初めてだった。流石にナマで聴く出演者たちの歌声は素晴らしかった。

舞台写真提供: ホリプロ 撮影: 宮川舞子

初めて観たミュージカル「レ・ミゼラブル」・・・・・本田悦久 (川上博)
★海外出張した時など、ミュージカル大好き人間としての楽しみは、仕事が終わった後に、その土地のミュージカルを観ること。1985年はロンドンで、幸いにも大きな話題を呼んでいた「レ・ミゼラブル」に出会った。以下はその時の手記。

☆11月3日にロンドン入りして、4日にプリンス・オブ・ウェイルス劇場で「ガイズ&ドールズ」を観た。昨5日は、リリック劇場の「ジジ」、そして今日は話題の「レ・ミゼラブル」をバービカン劇場で初めて観ることとなった。1980年にパリで初演されたフランスのミュージカルだ。

 ヴィクトル・ユゴー原作の「ああ、無情」をミュージカル化したもので、制作はアラン・ブーブリルとクロード・ミシェル・シェンベルグ、作曲はクロード・ミシェル・シェンベルグ、英語の作詞はハーバート・クレツマー。演出はトレヴァー・ナン。

 時は1815年、所はツーロン。パンを盗んで捕まったジャン・ヴァルジャン (コルム・ウィルキンソン) は、ジャヴェール (ロジャー・アラム) から仮釈放され、19年のブタ箱生活から逃れる。この幕開けの囚人たちの憎しみと恨みに満ちた、激しく力強い合唱に、まずは圧倒される。
 1823年、モントルイユ・シュールメール。ヴァルジャンはマドレーヌと名を変えて工場主となり、やがて市長となる。しかし、市長の正体を知ったジャヴェールは、どこまでもヴァルジャンを追い続ける。

 ヴァルジャンは、女工だったファンティーヌ (パティ・ルポン)の死の床に立ち合い、彼女の娘コゼット (レベッカ・ケイン) をテナルディエ夫婦 (アラン・アームストロングとスー・ジェイン・タナー) から引き取り、わが子同様に育てる。成長したコゼットは学生運動に身を投じているマリウス(マイケル・ボール)と恋に落ち、コゼットの恋人を守る為に、ヴァルジャンも学生運動に加わっていく。学生運動は失敗に終わり、ヴァルジャンは瀕死のマリウスを助け出す。壮大なこのストーリーは全編歌で綴られ、観る者の想像力を掻き立てて、飽きさせない。

 どの曲も物語とピタリと合っていて、出演者の歌唱力も見事の一言だが、幕開けに囚人たちの歌う「Look Down」、マリウスへの片思いを歌うエポニーヌ(フランシス・ラッフェル)の「On My Own」、学生達の「Do You Hear the People Sing?」、ヴァルジャンの「Bring Him Home」などが、特に心に残った。

1985年11月6日記

「レ・ミゼラブル」インタナショナル・キャスト盤の制作
・・・・・本田悦久 (川上博)
☆このインタナショナル・キャスト盤は、「レ・ミズ」人気がロンドン、ニューヨークから世界的に拡がりつつあった1988年に制作された。この企画を思いついたのは、キャメロン・マッキントッシュその人だった。彼は1987年11月にシドニーの初日を観て、オーストラリアの最高の「声」を集めたシドニー・キャストによる全曲完全盤の制作を期待したが、いろいろな事情で断念せざるを得なかった。そこでマッキントッシュは、世界のカンパニーから代表的な役者を集めて、この企画を実現しようと思い立ち、ロンドンのファースト・ナイト・レコード社長ジョン・クレイグに話を持ち込んだ。彼は直ちに同意し、ブーブリルとシェーンベルクも賛同して、アルバムのプロデュースをデイヴィッド・キャディックに委ねた。アルバムの基本的なコンセプトは、舞台を観ていなくても、音だけで充分楽しめる最高の録音とすること。スタジオは、1980年の最初のフランス盤、1985年のロンドン初演キャスト盤と、既に2回録音している「レ・ミゼラブル」の故郷のような英国ウェンブリーのCTSスタジオに決まった。演奏は英国の代表的な交響楽団ザ・フィルハーモニアの66人の団員にパレス劇場のオーケストラから6人のミュージシャンが加わり、マーティン・コッシュが指揮を執った。録音にはロンドンの「レ・ミズ」の舞台に出たことのある50人のアンサンブルの面々が駆け参じた。

 エポニーヌのパートは、数ケ月前に英国女王のロイヤル・ヴァラエティ・ショウに出た日本のカホ・シマダに決まった。ジャン・バルジャン役は、ブロードウェイの2代目で、カントリー&ウエスタンのスターでもあるゲイリー・モーリスとなった。シドニーからはフィリップ・クォースト (ジャベール)、デビー・バーン (ファンティーヌ)、アンソニー・ウォーロウ (アンジョルラス) の3人が選ばれた。ロンドンからはマイケル・ボール (マリウス)、バリー・ジェイムス&ケイ・ソパー (テナルディエ夫妻) 、コゼットはニューヨークのトレイシー・シェイン、その他の役はロサンゼルスとロンドン勢で固められた。録音はCTSスタジオを中心に、1988年8月から10月にかけてナシュビルとシドニーで行われた。英語圏以外からの唯一の参加者であるカホさんは、シドニーに出かけて吹き込んだ。ロサンゼルスでのミキシングも10月には完了し、70人以上のアーティスト、同じく70人以上のミュージシャンを動員して完成したこの画期的な録音は、英国で3枚組CD、3本組カセット、4枚組LPレコードで発売された。この録音は、「レ・ミゼラブル」の世界的なヒットと共に大評判となり、米国ではグラミー賞に輝いた。

1999年4月30日記

スペインのマドリードで「ロス・ミゼラブル」初演・・・・・本田悦久 (川上博) 
★1992年にスペインに行った時は、既にロンドン初演、東京初演はじめ各地で観ているので、スペイン語は言葉は判らないが、「レ・ミゼラブル」も、ラテン系となると、どことなく陽気さも加わり、興味深かった。

☆1985年のロンドン初演に始まった「レ・ミゼラブル」の外国での観劇は、1987年のニューヨーク、オスロー、1988年のテルアヴィヴ、ウィーン、1989年ロサンゼルス、1990年のブダペスト、1991年のストックホルム、アムステルダム、パリ、そして今年6月のトロントに続くマドリードで12都市になった。スペイン語版は初めてだ。プラシド・ドミンゴがキャメロン・マッキントッシュに協力して制作に関わり、スペイン上演を実現させた。

 劇場はテアトロ・ヌエヴォ・アポロ・ド・マドリード。演出は諸国の「レ・ミズ」を演出している英国のケン・キャスウェル。スペイン語の訳詞はプラシド・ドミンゴ・ジュニアとマリア・D・グレゴリー。ジャン・ヴァルジャン役はペドロ・ポマーレス。テノールが美しい。ジャヴェールはミゲール・デル・アルコ。ファンティーヌはゲマ・カスターノ、エポニーヌがマルガリータ・マルバン、コゼットはルイザ・トーレス、マリウスはカルロス・マリン、テナルディエがエンリケ・デル・デル・ポルタル、マダム・テナルディエがジョアン・クローザ、アンジョルラスがエンリケ・ポルタル。
 ストーリーは何処も同じだが、スペイン語で歌われると、暗いストーリーが何となく、明るくなるのは、不思議。言葉が分からなくても充分楽しめる秋の夜だった。

(1992年11月17日記)

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