2017年8月 

  

Classic CONCERT Review【声楽】

「ナタリー・マンフリーノ ソプラノ・リサイタル」(6月22日、武蔵野市民文化会館小ホール)
 今回が初来日のナタリー・マンフリーノ。最高のドラマティック・ソプラノだ。身体の中に巨大な溶鉱炉があるように、熱く燃える歌声が小ホールの壁を突き破るような勢いで飛び出してくる。声が大きく強いだけではなく、艶があり、弱音もコントロールされる。音を高く遠く飛ばし、最後に消え入るように終わらせるテクニックもある。
 彼女の持ち味が最も発揮されたのは、前半最後の、マスネ「彼は優しい人」歌劇《エロディアード》より。サロメが預言者ジャンの素晴らしさを讃える歌。「愛する預言者よ、あなたなしでなぞ、生きられまい!」と鋼鉄の強さで歌う声に「ブラヴァ!」多数。
 最後に歌ったヴェルディ「神よ平和を与えたまえ」歌劇《運命の力》より。レオノーラが引き裂かれた恋人アルヴァーロへの思いから抜け出せずにいる自分に、神に死で安息を求める歌が劇的で素晴らしかった。
 聴衆の熱い反応に乗ったのか、アンコールは3曲。それらが全て良かった。ドラマティック・ソプラノにぴったりのベッリーニ「神聖な女神よ」歌劇《ノルマ》より、プッチーニ「ある晴れた日に」歌劇《蝶々夫人》より、は当然として、リリックに向いたプッチーニ「私のお父さん」歌劇《ジャンニ・スキッキ》よりが、涙がでるくらい良かった。彼女の明るい性格と歌がぴったりと重なったためではないだろうか。
 ビゼー《カルメン》のミカエラや、プッチーニ《ラ・ボエーム》のミミのように純真で弱さを持ったキャラクターは、マンフリーノの声は少し強すぎるようだ。
 ピアノはゲオルギューやフェリシティ・ロットとも共演するなど、ヨーロッパで活躍中の中野正克。リサイタル終演後マンフリーノは中野と抱き合い、お互いを讃えあった。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【オーケストラ(ピアノ協奏曲)】


「シモーネ・ヤング 読売日本交響楽団 ベフゾド・アブドゥライモフ」(6月24日、東京芸術劇場コンサートホール)
 アブドゥライモフを聴くのは2度目。2012年8月12日、ウルバンスキ指揮東京交響楽団とのチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を聴いて以来。そのときの感想は『フォルティシモからピアニッシモまで、ダイナミックの幅が大きいだけではなく、どれだけ強く弾いても音に気品があり、響きの美しさが保たれている。 テクニックはもちろん、音楽全体の流れと構成が完全にできており、弱音での細やかな表現力や自然なルバートが素晴らしい。』と書いていたが、今日聴いたプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番も、同じように感じた。
 的をはずさない確実なテクニック。「ヴィルトゥオージティ」(第1、3楽章コーダの超絶技巧)と「叙情性」(第2楽章の変奏、第3楽章の中間部)の両立が素晴らしい。ヤング指揮読響も木管金管をはじめヴィルトゥオージティのある演奏だった。アンコールが5年前と同じチャイコフスキー「6つの小品作品19から第4番夜想曲嬰ハ短調」だったのは、微苦笑。よほど好きなのか、激しい曲の興奮を冷ますには最適なのか。
 ヤング指揮のR.シュトラウス《アルプス交響曲》は、前半駆け足の登山、後半の下山はゆっくりといったテンポ設定。前半は急ぎ過ぎのように感じ、音楽の運びが不自然だったが、よく読響を鳴らした。読響は本当にうまい。どのパートも隙がない。ホルン、トランペット、打楽器、クラリネット、オーボエ、フルート、ファゴット、イングリッシュホルン、チェロの各首席、コンサートマスターと次々に立たせて感謝の意を示すヤング。読響との相性はとてもよい。 (長谷川京介)

写真:シモーネ・ヤング(c) Berthold Fabricius

Classic CONCERT Review【オーケストラ(声楽)】


「下野竜也 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 池田香織」(メゾ・ソプラノ)(6月24日、東京オペラシティコンサートホール)
 1曲目フンパーティンク歌劇《ヘンゼルとグレーテル》前奏曲は、メリハリがあり流れが良く、下野竜也はオケを鳴らすのは本当にうまいと思う。
 ワーグナー(ヘンツェ編)《ヴェーゼンドンク歌曲集》のオーケストラは6-4-4-2の小編成。インティメート(親密)な雰囲気があり、この歌曲集の秘められた詩の内容にそぐう。池田香織は、イゾルデが歌うような迫力のある歌唱。第3曲「温室にて」の細やかなオーケストラの後奏が心に残った。
 読響とのドヴォルザーク交響曲全曲演奏で定評のある下野竜也にとって、交響曲第6番は最も得意とする作品のひとつ。それを証明するかのように、隙のない完成された演奏だった。曲の持つ生命力、浮き立つような民族的な旋律、チェコの自然を賛美するような曲想など、作品を知りぬいた下野の指揮に、東京シティ・フィルも全力で応えていた。各奏者の演奏も充実していたが、中でもフルートの竹山愛のソロが素晴らしく、下野も演奏後最初に立たせた。
 充実した演奏だが、そこに何が加われば更に素晴らしい演奏になるか考えてみた。それは「本物感」かもしれない。楽譜に正確なだけでは得られない何物か。楽譜の背景にある深い文化的な側面、味わい、肌感覚のようなもの。チェコ人でしか表現できないものとまでは言わないが、ヨーロッパの伝統に基づいたニュアンス、味わいがいま少し加われば鬼に金棒ではないか。真似をすればいいということでもない。借りてくれば事足りるわけでもない。あるいは、別にヨーロッパの伝統など気にすることはない、音楽は世界共通語であり、さまざまな解釈が成り立つ、という見方もあるだろう。しかし、聴き手は欲張りだから、いい演奏の先を求めたがる。わがままなリクエストを下野竜也はどうとるだろうか。
(長谷川京介)

写真:下野竜也(c) Naoya Yamaguchi 池田香織(c)井村重人

Classic CONCERT Review【室内楽】

「オリジナル楽器で聴くブラームス、佐藤俊介×鈴木秀美×スーアン・チャイ」(7月4日、ふきのとうホール)
 「オリジナル楽器で聴くブラームス」と銘打たれた室内楽のコンサートを聴いた。ヴァイオリンが佐藤俊介、チェロが鈴木秀美、フォルテピアノがスーアン・チャイ。曲目はヴァイオリン・ソナタ第2番op.100、チェロ・ソナタ第1番op.38、ハンガリー舞曲より抜粋(Vn.とFp.)、ピアノ三重奏第3番op.101。
 楽器は、ヴァイオリンとチェロがガット弦でチェロはエンドピンなし。フォルテピアノは1870年式のシュトライヒャー。シュトライヒャーはブラームスが自宅で使っていた楽器と同型だという。
 まずは楽器の印象。ヴァイオリン・ソナタ第2番の冒頭。温かいピアノの主題に、表情を排したヴァイオリンがエコーのように呼応する。響きの強い現代楽器ではなかなか出ない効果。冒頭動機の対位法的な展開。ここは現代楽器だとどうしようもなく厚ぼったくなる。しかし、意外なほどすっきり響いた。ピアノ・トリオop.101。第一楽章終結のⅥの和音のフェイント的な偽終止が鮮明に響く。その直後に脅かすように完全終止。倍音構成の異なる現代楽器より和音の性格がストレートだ。
 しかし、演奏そのものは当時の様式に拘泥などしていない。各奏者が感じるままに情熱をぶつける。熱演が繰り広げられた。印象に残ったのはチェロ・ソナタとピアノ・トリオ。チェロソナタは、ホ短調の主題のいかにも寡黙な表情が深みを宿している。抑制を解除し激情が迸る第二主題。小結尾では遠くに憧れるような熾烈な歌が心に染み込む。展開部が激烈だ。第一主題の展開でピアノに対比されるチェロの下降音形の凄まじい気迫。ここぞとばかりに雪崩を打つようなフォルテピアノの分散和音。終楽章も素晴らしい。二重対位法と三重対位法の雨を縫って主題が回帰する際の精神的な高揚感。ピアノ・トリオop101には驚かされた。三人の奏者がまるで真剣で闘っているかのようなのだ。ステージに火花が散る。しかも、演奏が進むうちにブラームスの音楽の中に統一されてゆく。音楽が嬉々としてくる。第二楽章のヘ短調中間部ヴァイオリンとチェロのかけあいが楽しい。佐藤が鈴木を挑発する。鈴木は泰然と答える。二人の顔に笑みが見える。情熱に溢れ、いささかも辛気臭くならない感動的なブラームスを堪能した。臨時編成ゆえの一回性の輝きに満ちていた。
 ふきのとうホールは3年前に札幌駅近くに開業した。客席は200席余り。古楽器の繊細な音色の変化を楽しむにはもってこいの環境。このホールで聴く古楽器の響きをぜひ道外の音楽ファンにも体験してほしい。(多田圭介)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

東京カンマーフィルハーモニー 第15回定期演奏会 松井慶太指揮
(7月9日 渋谷区文化総合センター大和田さくらホール)

シューマン:交響曲第2番 ハ長調
ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」


 アマチュアのオーケストラを聴いた。学生ではなく社会人のオケである。アマチュアのオケを聴く楽しみはどこにあるか。彼らはプロのオケにはないいろんな制約の下で演奏しなければならない。例えば、奏者だけでなく楽器も思うようにそろえられないだろう。トランペットがバルブのないナチュラルだったのに対してティンパニがモダンだったことに関心を引かれた。でも、人を説得するのにそのような制約は関係ないのかもしれない。アマチュアはそれを乗り越える。生演奏は演奏者の気持ちが伝わってくる。一年に1回か2回の演奏にかける彼らの熱意はプロにはない。たしかに、前半のシューマンは金管が活躍すること、また弦楽器も比較的難しいので、オケ団員は緊張し、聴衆は戸惑ったと思う。しかし、一生懸命さには共感できた。後半のベートーヴェンは指揮者の意図が明確に感じられて、プロやアマという区分など吹っ飛んだ。冒頭「運命の動機」と言われる「ソソソ♭ミ〜、ファファファレ〜〜」ですべてが感じられたと言ってもいい。「♭ミ〜」、「レ〜〜」上のフェルマータが、筆者がこれまで聴いてきた演奏の中でもっとも短く簡潔だった。ところが、この簡潔さ、メリハリが「運命」全曲を支配していた。同じ精神が全曲のすみずみにまで浸透し、作品としての統一感が見事だった。アマチュアの方々のさまざまな活動が音楽文化の大切な支えとなっている。今後も応援したい。(石多正男)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

ジョナサン・ノット東京交響楽団 マーラー交響曲第2番「復活」(7月15日、ミューザ川崎シンフォニーホール)
 ノットの「復活」は、バーンスタインのように激情がほとばしるものでもなく、ヤンソンスのように温かく抱擁する優しさに満ちたものでもない。どこか距離を置いて作品を俯瞰しながら、隅々まで光をあてて緻密に組み立てていく。時に激しく切り込む部分もあり、繊細さと攻撃性、静と動のコントラストがはっきりと出た演奏でもあった。内部に熱いものを秘めつつ、興奮に流されることはなく、東京交響楽団の能力を見極めながら指揮を進めていった。
 ノットは以前マーラーの交響曲第3番を指揮した時、第6楽章について『いつか確信を得られるのではという希望を抱いたものの、結局かなわない。ほんとうに悲しい音楽、深い憂愁を帯びた幕切れです。』と語ったが、果たして今回の「復活」にはどういうメッセージを込めたのだろうか。
 前半に、細川俊夫が2011年3月11日の東日本大震災の犠牲者、とりわけ子供を失った母親たちに捧げた作品《「嘆き」〜メゾ・ソプラノとオーケストラのための ゲオルク・トラークルの詩による》を持ってきたことから、震災の犠牲者とその家族の「復活」を願ったと推測することは可能だが、果たしてそのように分りやすいものだったのだろうか。
 個人的には、突き放して作品を見ている現代的な醒めた「復活」のように感じた。信じようとするが、信じられない世界。解決の糸口の見えない複雑な現代社会の反映ではないかと思った。
 東京交響楽団はノットの指揮に献身的に応えた。トランペットに傷はあったが、2日目は解消されるだろう。バンダの金管は3階と2階上手ロビーに配置され、立体的な効果を上げた。メゾ・ソプラノ藤村実穂子の安定した歌唱は完璧。ソプラノの天羽明惠も美しく伸びやかな声を聴かせた。東響コーラスは出だしがやや不安定だったが、すぐ持ち直し、分厚い引き締まったコーラスで見事だった。
 細川俊夫作品はヒリヒリとした緊張感に満ちていた。第一次大戦で精神の均衡を崩し自殺した詩人、ゲオルク・トラークルのドイツ語の詩を語り、歌う藤村実穂子の存在感は重いものがあった。打楽器が和の雰囲気を醸し出し、印象的。最後は人魂が消えていくような不気味さもあった。(長谷川京介)

写真:ジョナサン・ノット(c)K.Miura

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第308回定期演奏会 藤岡幸夫指揮
(7月22日 東京オペラシティコンサートホール)

パーセル(ブリテン編):シャコンヌ ト短調
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 (独奏:木嶋真優)
エルガー:交響曲第1番 変イ長調
 

 弦楽合奏のパーセルが始まると、耳が一瞬にして生き返った。いかにヘッドフォンで音楽を聴いてしまう日常が不自然か、気づかされる。バロック時代の優しい響きに身体全体が癒やされた。さて、木嶋のショスタコーヴィチ。まずは1700年のストラディヴァリウスの豊かな響きに圧倒された。300年以上前の楽器が現代の大オーケストラに負けない。これはスゴイことだ。曲が進むと、木嶋のテクニックが時には鋭い音、ある時は繊細優美な音を奏で、さまざまな表現を導き出していた。しかもオーケストラをぐいぐい引っ張る力量は素晴らしかった。それが爆発したのはフィナーレだが、オーケストラの存在が霞むほどの木嶋の一人舞台だった。ショスタコーヴィチの第1番は20世紀のヴァイオリン協奏曲ではベルクなどと並ぶ傑作・難曲、そして人気曲だと思われるが、この40分にもおよぶ大作を木嶋は完全に理解し、掌握し、自分のものとしていた。会場からは割れんばかりの拍手が沸き起こっていた。
 後半のエルガーだが、藤岡のイギリス作品は定評がある。しかし、前半の木嶋のヴァイオリンの印象が残っていたためか、少し戸惑った。しばしばエルガーの交響曲は全曲の構成に緻密さが欠ける、繰り返しが多いなどと非難される。また、スコアでは多くの楽器が絡み合い複雑に見えるが、出てくる音楽はおおむね明快だ。このような難点や特徴を優れた演奏に変えることは難しいかもしれない。木管・金管・弦がそれぞれの存在を主張し、絡み合う場面がある。それが見事に溶け合うと非常に美しく快い音楽になるのだが、うまくいかないとバラバラの継ぎはぎになってしまう。いくぶんそんな印象を与えられたことは否めない。とはいえ、英国賛歌のようなフィナーレでは藤岡の気持ちが伝わってきた。また、クラリネット(山口真由)やホルンのソロも快く聴けた。演奏会は生ものである。オケは全体を統率する指揮者だけでなく、ソリスト一人一人に耳を傾ける楽しみもある。これは素敵だった。(石多正男)