2016年11月 

  

ノーベル授賞語らぬボブ・ディラン。・・・・・池野 徹
ボブ・ディランが今年のノーベル文学賞に決まったが,日本のマスコミ等評論家たちはその作詞についてレジェンダリーに作家でなく歌手を選んだ事に驚きとそのインフルーエンス性を述べ賞賛している。当時反戦フォーク歌手として登場した事は記憶に新しいがそのリリックスの凄さなど感じていなかった。およそ日本人は外国人歌手の歌う歌詞の意味というより,メロディー作曲に魅力を感じている方が圧倒的に多いだろう。おおよそ英語の意味など理解できないしメロディーに頼り切っていたに違いない。ビートルズだってストーンズだってその歌詞を解るヤツなどほとんどマニアの一握りだ。ストーンズ好きだから作詞集をみたが男と女の卑猥さも含め,たわいもない作詞が多い。時代の背景を,社会の動静を,戦争の醜さを,愛と平和を歌う歌手は少ない。ジョン・レノンやジミ・ヘンドリックスは希有に値するが。

ボブ・ディランが黙して語らずは合点がいく。歌い手はステージで歌うのが本筋だが近頃の歌手達は下手なMCが多すぎて抵抗を感じる。もっと自分の歌を表現し,熱唱して観客に感動を与えるべきだ。

ボブ・ディランがステージで歌うこと,その都度クリエイティブ性を発揮して新しい曲を歌う。フォークのジャンルを超え自分の音楽性を披露していたのは,まさに古い言い方だが時代に生きた吟遊詩人だったのだ。

1978年以来,武道館でコンサートを見て来たがボブ・ディランは来るたびに新しいボブ・ディランを見せていた。そう当時,美空ひばりが見に行ったが"Blowing In The Wind"をボブ・ディランが歌わなかったのは失礼だと言っていたのを思い出した。

スウエーデンのノーベル賞は,しかし粋な事をやったものだ。直後の10月ストーンズも出演したデザート・トリップでボブ・ディランはピアノを弾き語りながら金髪のヘアで淡々と"Like a Rolling Stone"を歌っていた。授賞のコメントは皆無だった。

ボブ・ディランは何を思っているのだろうか。

(Photo by David Bailey)

「おめでとう、ボブ」・・・・・菅野ヘッケル
ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したニュースを世界中のメディアは驚きをもって大々的に伝えた。もちろん村上春樹の受賞が期待され、ノーベル文学賞への関心が高まっていた日本でも、全国紙の多くがディラン受賞のニュースを1面トップ記事として伝えた。この受賞に対して、ディラン・ファンの多くは「ついに獲得した!」という心境だと思う。

毎年10月になるとノーベル賞が話題になるが、ノーベル財団はすべての部門の候補者を発表しない方針をとっている。ただしヨーロッパのブックメーカーは毎年受賞予想者をリストにしてそれぞれの賭けの倍数を発表している。今年の文学賞の予想では、村上春樹がトップでボブ・ディランには50倍の賭け率が設定されていた。つまり、受賞はないだろうという見方が広まっていたので、ディランの受賞に驚いた人も多いはずだ。

ボブ・ディランがノーベル賞の候補に推薦されたのは、1996年が最初だったようだ。前述のようにノーベル財団は候補者名簿を正式に発表しないので、実際にディランが候補者リストに入っていたかどうかは確認できないが、おそらく名前が挙がったのだろう。その後、毎年、ブックメーカーが発表する文学賞の候補者リストにボブ・ディランの名前が入るようになった。賭け率でトップに挙げられる年もあったが、最初に噂が広まってから20年、ようやく今年、2016年に受賞が決まったというわけだ。

ボブ・ディランは基本的にロックアーティストであり、ソングライター/シンガーだ。『ボブ・ディラン自伝』『タランチュラ』『ボブ・ディラン全詩集』など、数多くの著作物も出版しているが、これまでノーベル文学賞は世界にまだ知られていない才能豊かな作家に授与されることが多いので、ボブ・ディランのような有名ロックアーティストに授与されたことは驚きだ。長い歴史の中でミュージシャンに文学賞が授与されるのは初めてという報道も多いが、1913年にインドのラビンドラナート・タゴール(詩人/ソングライター)が受賞していることを忘れてはならない。もちろんパフォーマンスを主体とするディランに文学賞の授与が決まったことは、ノーベル文学賞がこれまでの枠を打ち破り、新たな世界に広がった、あるいは流れが変わったということだろう。文学で重要なことはことばであり、それを伝える手段ではない。つまり従来のように印刷媒体だけが文学ではなく、歌という手段でことばを伝えることも文学であると、選考委員会が考え方を変えたのだろう。

選考委員会はボブ・ディランの受賞理由を「アメリカの伝統音楽にのせて、新しい詩の表現を創造した」と発表した。受賞の機運が高まった5年前、ぼくは「フォーク、ブルース、ロックなど米英に流れる伝統を受け継ぎ、未知の世界を切り開き、社会を刺激し、人の心に響くことばを吐き出すディランは、今もクールな詩人であり続ける」とコメントしたのを思い出している。ディランの基本は吟遊詩人だ。ボブ・ディランは「自分で歌いたい歌がなかったので自分でつくることにした」と語ったことがある。音楽好きの少年がアメリカで聞かれるさまざまなジャンルの歌を聞き、歌手/ソングライターになり、アレン・ギンズバーグを筆頭とするビート詩人たちと交流し、刺激を受けて詩をメロディに乗せて歌として発表するようになったのだ。

だからこそ、ディランの歌詞の一部がスローガンのように多くのファンに記憶されるのだろう。英語が苦手な日本のファンのなかには、ボブ・ディランの歌詞はよく理解できないと嘆く人もいるかもしれない。しかし、ぼくはこう思っている。心に残るフレーズやひとつのことばが重要だと。「何かが起こっているのに、あんたはそれが何なのかわからない。そうだろう、ミスター・ジョーンズ?」とか「どんな気がする? 帰る家がないことは」など聞き手の心情を刺激することば、社会情勢にあったことばがかならずある。「ことば」が勝手に歌から聞き手に飛び出してくると言ってもいいだろう。

最後にインターネットのディラン・ファンサイトの投票によるディランのノーベル文学賞受賞を決定付けた15曲を紹介しておこう。1位から順に「ジョハンナのヴィジョン」「廃墟の街」「はげしい雨が降る」「ライク・ア・ローリング・ストーン」「ブルーにこんがらがって」「イッツ・オールライト・マ」「ミスター・タンブリン・マン」「エヴリー・グレイン・オフ・サンド」「時代は変わる」「自由の鐘」「ブラインド・ウィリー・マクテル」「戦争の親玉」「風に吹かれて」「見張り塔からずっと」、そして15位に「やせっぽちのバラッド」とい結果になっている。もちろん、「愚かな風」「ノット・ダーク・イェット」「エイント・トーキン」「いつまでも若く」「メイク・ユー・フィール・マイ・ラヴ」「フォゲッタブル・ハート」など、これら以外の歌を挙げるファンも多くいるだろう。

ディランの受賞を祝って、世界中の多くのミュージシャンたちがコメントを発表している。ただ、ボブ・ディラン本人はまだ受賞について何のことばを発表していない。ネヴァーエンディング・ツアーで毎年100回近いコンサートをおこなっているディランは、受賞が発表されたあともいつものようにコンサートをおこなっている。もちろん、ステージ上で今回のノーベル賞受賞についた何かコメントすることもない。

「だれもボブのように歌えない」

菅野ヘッケル 2016年10月20日

キューバの「バラデーロ音楽祭」に招かれて・・・・・本田悦久 (川上博)
☆ハバナの東、130キロ程のところにあるマタンサス州バラデーロ。碧いカリブの海と白い砂浜、まぶしい太陽の光・・・キューバ随一の観光地として名高いこの町で、第1回インテルナシオナル・フェスティバル・デ・ラ・ヌエバ・カンシオン (新しい歌、国際フェスティバル) ---
バラデーロ 1982 が開催され、キューバ文化省から招待を受けた。

航空運賃から滞在費まで、すべてキューバ側が負担してくれるのだが、お国の事情でアエロフロート便を使う。キューバの文化メタルを受けて帰国されて間もない見砂直照さんのお話では「キューバはアエロフロート便を使うので、モスクワからアイルランドのシャノンを経由して、ハバナ空港に着陸するまでに33時間かかった」とのこと。筆者がキューバ入りするのはこれで3回目だが、33時間は初めて。これは参った!

11月下旬だというのに、日中は30度を越す暑さ。ハバナの空港から車で2時間半位走る。バラデーロの宿舎はビラ・クーバ、革命前はデュポンの別荘だった。そこに、世界20か国から30組のアーティストが集まった。地理的関係から、中南米諸国が中心となるが、今回はスペイン、イタリア、ドイツ、ソビエト、アンゴラ等が加わっており、外国からの参加アーティストの中には、アルベルト・コルテス (アルゼンチン)、アストル・ピアソラ (アルゼンチン)、クララ・ヌネス (ブラジル)、カルロス・リコ (メキシコ)といったビッグ・ネームも混じっていた。

会場は、5千人以上の収容力を持つバラデーロ野外劇場で、11月23日から6日間、連夜イラケレの奏でるファンファーレに始まり、深夜の1時半頃まで、延々5時間がかりの熱演が続く。その間、休憩時間は5分間ずつ2度ほど。夜ともなると、半袖のシャツでは薄ら寒い感じだが、土地っ子たちは、半袖で平気らしい。

毎日5時間、延べ30時間近くを30組のアーティストでまかなうので、1アーティストの演奏時間はけっこう長いし、同じアーティストが2日間続けて出ることもある。
観客はキューバ各地から、所謂 “ツアー・バス” でやってくる。因みにハバナからだと往復のバス代、夕食代、会場の入場料込みで一人25ペソ (約¥6,750) だとか。

このフェスティバルはコンペティションではないので、グランプリを狙って暗躍するといった黒い噂も無く、純粋に音楽を楽しみに集まった人たちで、気持ちの良い真の歌の祭典が繰り拡げられる。客席で熱狂して、踊りまくる人たちもいた。

キューバには、1972年頃から “新しい歌の運動” を提唱し、普及に努めてきた若い音楽家たちのグループがある。今回のフェスティバルの中心になった連中だ。ソロ・シンガーでは、最高の売れっ子が自作曲のギター弾き語りをやるシルビオ・ロドリゲス、シンガー・ソングライターのアレハンドロ・ガルシア、それにパブロ・ミラネス、アウグスト・ブランカ、女性ではミリアム・ラモス、サラ・ゴンザレス、マーサ・ジャン・クロード、グループではモンカダ、ロス・カーニャス、マヨワカンといった人たちで、彼らは今やキューバ音楽界に大きな影響力を持つところとなった。

“新しい歌” といっても、ピアノやギターの弾き語りから、物語り風、ロック調、フォーク調、コミカルなものなどと多彩だが、ハード・ロックやパンク・ロックのような激しさはない。全体的にメロディアスな曲が多い。伝統的なキューバン・リズムが踊り中心の音楽とすれば、“新しい歌” は、聴かせる音楽と云えるかもしれない。しかし、フェスティバルで演奏され、歌われた曲がすべて新曲だったわけではない。キューバのアーティストにしても、外国からのゲストにしても、自分たちの十八番ものをたっぷり取り入れて、ショウを豊かに構成していた。傑作だったのは、ビルロことアレハンドロ・ガルシアが白いマフラーのようなものを首に巻いてステージに現れた。マフラーに見えたのは、小道具 (?)の白猿。その白猿君と腹話術でデュエットしたのは愉快だった。

ベテラン歌手の中ではエレーナ・ブルケ、オマーラ・ポルトオンドが健在で、相変わらず素晴らしい。オマーラとは、初日の舞台のあとホテルのクラブで、そして翌日、ホテルのプール・サイドでと、2回会うチャンスがあった。1970年の大阪万博で来日した時に覚えたという “サクラ・サクラ” を小声で歌ってくれた。もう一つ忘れられないのは、元イラケレのトランペッター、アルトゥーロ・サンドバルが、ソロ奏者として大変に精力的な熱演を見せてくれたこと。

外来アーティストの中では、黒シャツに黒ズボン姿、いかにもタフで男っぽいアルベルト・コルテス (アルゼンチン) が圧倒的によかった。さすがスペイン語圏の大スターだ。クララ・ヌネスもよかった。彼女は以前に東京公演を観そこなっていたから、6年前にカンヌで観て以来だった。

パラデーロでの1週間はあっという間に過ぎて、帰りは再びハバナからのモスクワ経由便。余談だが、国交のないアメリカからチャーター便がハバナに飛んでいるという噂は聞いていたが、なるほど相当数のアメリカ人観光客がマイアミから入ってくる。ハバナ空港の管理窓口は、乗組員用、一般客用、そしてマイアミからのアメリカン・チャーター航空会社専用と、3つあった。

ところで、筆者の通訳として就いてくれたのは、ハバナ大学日本語学科卒業のジルベルト君。彼は「中曽根さんが日本の首相に決まりましたよ」と第1報を伝えてくれた。

(1982.11.29. 記)
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(「中南米音楽」誌 1983年3月号に掲載)

ミュージカル「株式会社 応援屋 !!」・・・・・本田浩子
「ABC座 2016 応援屋!! OH & YEAH!!」が、10月5日から27日まで、東京の日生劇場で上演され、初日を観る機会に恵まれた。以前、宝塚のある演出家に、「できれば、舞台の初日でなく、3日目くらいがよいですよ」と言われて、「何故?」と尋ねると、「舞台を開けてから、手直しすることがあるから」とのこと。しかし、ABC-Zの大先輩・錦織一清演出の舞台は、そんな心配は無用だった。

ジャニーズ所属の人気グループABC-Z(座)の今回の舞台は、ずばり「応援屋!!」。幕が開く前に、幕前では応援屋と書かれた太鼓が叩かれ、グループのメンバー、橋本良亮、戸塚祥太、河合郁人、五関晃一、塚田僚一の5人が肩からかけた小太鼓を、華やかに打ち鳴らし、OH&YEAH と歌い、早々に舞台を盛り上げる。

予備校の先生だった修也(河合郁人)は、日頃の暴言癖が災いして、首になり、かつての先生仲間、裕美子(鈴木ほのか)の会社に面接に行く。一人では不安と万年コンビニ店員ジョー(戸塚祥太)を誘う。行ってみると、そこは「株式会社 応援屋」、落ち込んでいる人を応援するのが仕事と聞いて、驚く。しかも、そこには、無敵のIT将棋を作った金儲け専門のカリスマブロガーいしけん(橋本良亮)が、今度は人助けに道を変え、応援屋の社員になっていた。いしけんは二人が面接に来るのを察知、二人の調査をしつくしていて、あの手この手と巧妙に誘い、結局、修也もジョーも入社、三人で「人の心はマスマティックス?」と歌う。今回は、IT将棋に負けた、棋士・桂馬(五関晃一)を救うのが目的で、三人揃って、将棋会館に向かう。そこには、引きこもりの青年、くりくり(塚田僚一)が、尊敬する天才棋士の桂馬に、勝てるのは実力No.1の桂馬さんだけと、IT将棋に再挑戦を勧めに、数年ぶりに外に出てきていた。

いしけんは、桂馬を自社に誘い、彼の将棋の知識を活かそうという目論見があり、くりくりは引退するなら、再挑戦して、ITに勝ってからと、説得に努める。引きこもり時代に筋トレに励んだくりくりは、アクロバティックな愉快な演技で、場内の喝采を浴びる。They武道、Travis Japanのメンバーの歌と踊りも見逃せないが、ひのあらたの長身を活かして、踊りながら歌う「人の不幸をクリック、クリック、クリック」も、弾むリズムで、歌詞とは裏腹に愉快で楽しい。ABC-Zメンバー全員がバック転を得意とするアクロバティックなダンスで、舞台狭しと動き、観客に迫る。応援屋のシャチョー(佐藤正宏)のコミカルな演技も舞台を盛り上げ、スパイスが効いている。一方、社長の元妻の裕美子の、事故で亡くした娘を想う歌「The Same Birthday」もしっとり聞かせる。

くりくりの熱心さにほだされ、桂馬はITに再挑戦、いしけん、くりくり等はどこにいようと応援をすると約束するが、ひのあらた率いる会社デジタル・コープスは、以前のリーダー、いしけんに対抗して、桂馬の負けを願う。IT将棋の様子は、「将棋 BANG!」の歌と踊り(殺陣)で華やかに繰り広げられ、迫力満点。デジタル・コープスに負けそうになると、桂馬のイメージに、いしけん等が現れて、デジタル・コープス相手に戦うのが印象的。

応援に励まされ、桂馬はITに勝利、裕美子は人を応援することで、いつか自分も癒され、元夫、シャチョーの熱烈なラブ・コールに応え、再婚!? いしけんに反発していたひの率いるデジタル・コープスも応援屋に入社するという思いがけないハッピー・エンディング。フィナーレでは、シャチョーが皆さんも是非応援屋に入社しましょうと会場に向かって呼びかけて、拍手が鳴り響き、エネルギー溢れる舞台だった。脚本・音楽は、西寺郷太、どの音楽も良かったが、「Change Your Mind」、「One More Kiss」、「桂馬のジレンマ」、「Delicious」は、耳に残る佳曲だった。

<製作: 東宝>

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