グレン・キャンベルとジミー・ウェッブの関係はもう45年余りにもなる。グラミー賞を獲得した「恋はフェニックス」(1967年/最初に取り上げたのはジョニー・リヴァースで1966年のアルバムに収録)を書いたのが若く有能な作曲家のウェッブでヒットさせたのがセッション・ギタリストでもあったキャンベル。この曲をきっかけに二人は全米ポップ・シーンの最前線に躍り出た。以降、キャンベルはウェッブの書き下ろし作品「ウィチタ・ラインマン」(1968年)「ガルヴェストン」(1969年)「ハニー・カムバック」(1970年)を続けて歌い大ヒットを連発、全米を代表するスーパー・スターの座を築き上げることになったのだが、そんな'盟友'の新作が揃ってリリースされた。「シー・ユー・ゼア/グレン・キャンベル」と「スティル・ウィズイン・ザ・サウンド・オブ・マイ・ヴォイス/ジミー・ウェッブ」(いずれもビクターエンタテインメントより同時に発売)。
双方ともかつての持ち歌のオン・パレード。いわゆる'セルフ・カヴァー'アルバムになっている。キャンベルはウェッブ作の「ウィチタ・ラインマン」「ガルヴェストン」「恋はフェニックス」は元よりあと「ジェントル・オン・マイ・マインド」「ヘイ・リトル・ワン」「ラインストーン・カウボーイ」など全12曲(日本盤はボーナス付きで14曲)。一方、ウェッブも代表作の一つ「マッカーサー・パーク」(1968年にリチャード・ハリス、1978年にドナ・サマーで大ヒット)など自作の14曲をそれぞれゲスト歌手と共に自ら歌っている。もっともウェッブにとってセルフ・カヴァー集は今回が初めてではなく企画としては前作に続く第2弾。「ジャスト・アクロス・ザ・リヴァー」(2010年7月:ビクター)では「ウィチタ・ラインマン(feat.ビリー・ジョエル)」「ガルベストン(feat.ルシンダ・ウィリアムス)」「恋はフェニックス(feat.グレン・キャンベル)」等を取り上げている。昨年には発掘音源(&映像)として二人が共演したライヴを収めた「In Session」(CD+DVD)も世に出された。これは四半世紀前の1988年12月のステージの模様だ。キャンベルは今年77歳、ウェッブは67歳。10歳の年の差を超えて二人は長年にわたり交友関係を深めて来た。
そういう経緯を再認識しながら今回の二人の新作を耳にすると興味深い。キャンベルの盤は2年前の前作「Ghost On The Canvas」(日本未発売)制作時に録音されていたセッション音源を基に作られたものだそうだがシンプルな音作りの中にキャンベルのキャリアが滲み出て胸に響く仕上がり(感涙もの♪)。ウェッブ作品の素晴らしさに改めて感動させられた次第。ウェッブの方も「マッカーサー・パーク」では何とブライアン・ウィルソンを招いたり、あとカーリー・サイモン、デヴィッド・クロスビー&グラハム・ナッシュ、ジョー・コッカー、アメリカ、アート・ガーファンクルといった大御所だけではなく若手の女性歌手ルーマーまでも。個人的にはグレン・キャンベルが歌ってヒットした「ハニー・カムバック」(feat.クリス・クリストファーソン)が一番印象に残った。
手に手をとって(?)お互いに'原点'を見つめ直そうとしているかのように思える二人の新作には感慨深いものがある。秋の夜長にじっくり聴きたい。
彼は1913年のクリスマスの朝、カリフォルニア州のサンフランシスコから湾をへだてたオークランドで生まれた。本名をアルヴィン・モーリス・ジュニアという。ビング・クロスビーより9才若く、フランク・シナトラより4才年上。12才頃にはサックスとクラリネットの奏法を覚え、16才でサンフランシスコのパレス・ホテルでサックスを吹いたり歌ったりしていた。1932年に「ラッキー・ストライク・アワー」の歌手として、ラジオにデビュー。夜は音楽生活、昼は勉強しようとセントメリー・カレッジに入学したが、教会のオルガンでジャズをやらかし、こちこちの神父さまを仰天させ、退学となった。1933年、シカゴのワールド・フェアに出演中、フランセス・ラングフォードと知り合い、彼女のすすめで映画に挑戦することとなる。1936年「艦隊を追って」(FOLLOW THE FLEET)、「膝にバンジョー」(BANJO ON MY KNEE) 等6作品に出演、その頃、アンソニー・マーティンと名乗っていたのを、トニー・マーティンと縮めた。1937年には「アリババ町へ行く」(ALI BABA GOES TO TOWN) 等5作品、1938年にも5作品・・・1941年にはジュディ・ガーランド、ラナ・ターナーとの「美人劇場」(ZIEGFELD GIRL)、「マルクス兄弟デパート騒動」(THE BIG STORE) と続き、映画スターとしての人気は着実に築かれていった。
トニーのレコード初吹込は、1937年、アンソニー・マーティンの名で、ブランスウィック・レーベルから出た「マナクーラの月」(THE MOON OF MANAKOORA)。デッカに吹込んだ「ビギン・ザ・ビギン」(BEGIN THE BEGUINE)、「セプテンバー・ソング」(SEPTEMBER SONG)、「今宵君を愛す」(TONIGHT WE LOVE) 等はベスト・セラーとなった。ラジオはアンドレ・コストラネッツ楽団と「TUNE-UP TIME」(1939-40) 、「デイヴィッド・ローズ・ショウ」(1941) 等に出演、ナイトクラブでも売れっ子になったが、第2次大戦中の1942年、応召して米空軍に従軍。中国、ビルマ、インド等を転々として、4年後に除隊。1946年にMGMのオール・スター・ミュージカル映画「TILL THE CLOUDS ROLL BY」(日本未公開) で映画界にカムバック。レコードはRCAビクターから「ゼアズ・ノー・トゥマロウ」 (THERE'S NO TOMORROW)、「コムシ・コムサ」(COMME CI, COMME CA)、「ドミノ」(DOMINO) 等のヒット盤を出した。
筆者は1950年代の高校生の頃、ラジオから流れるトニー・マーティンの「アイ・ゲット・アイデイアス」(I GET IDEASアルゼンチン・タンゴ「アディオス・ムチャーチョス」の英語版)、「キス・オブ・ファイア」(KISS OF FIREアルゼンチン・タンゴ「エル・チョクロ」の英語版)、「マイ・バンビーノ」(MY BAMBINO) 等を聞いていた。その甘く魅力的な歌声に聴き惚れ、声量豊かな独特のロマンティック・ヴォイスが素晴らしく、大好きな男性ヴォーカリストの筆頭となった。目蒲線・蒲田駅近くの馴染みのレコード店で、「夢で逢いましょう」(I'LL SEE YOU IN MY DREAMS)、「ビギン・ザ・ビギン」(BEGIN THE BEGUINE)、「マイ・バンビーノ」(MY BAMBINO)、ダイナ・ショアとデュエットの「愛の調べ」(MELODY OF LOVE) 等のレコードを買い求めた。その頃は78回転SP盤 (ビクターのS盤) の時代で、ポータブルの蓄音機で聴いていた。
ビクターではRCAビクター原盤のポピュラーを担当していたが、アメリカでビクター、コロムビア、キャピトル、デッカ、マーキュリーといった大手以外に、マイナー・レーベルが次々と登場する時代になり、日本ビクターではドット、インペリアル、20世紀フォックス、シーコ、ヴォックス、トップ・ランクといったマイナー・レーベルを次々に契約、ビクター・ワールド・グループとしてまとめ、洋楽陣を強化して担当することになった。その頃、ビリー・ヴォーン楽団、パット・ブーンが活躍していたドット・レコードに、RCAビクターからトニー・マーティンが移ってきた。ドット時代のトニーはビリー・ヴォーン作曲・指揮の「トゥ・ビー・アローン」(TO BE ALONE)、アルゼンチンの歌で、イタリアで大ヒットした「ラ・ノヴィア」(LA NOVIA)、「魅惑のワルツ」(FASCINATION)、「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」(FLY ME TO THE MOON)、チャイコフスキーのピアノ・コンチェルト第1楽章のメロディーをフレディ・マーティンがポピュラーにアダプトした「今宵きみを愛す」(TONIGHT WE LOVE) 、ロマンティックな「港の灯」(HARBOR LIGHTS)、「夕陽に赤い帆」(RED SAILS IN THE SUNST) 等が忘れられない。(以下次号)