2015年5月 

  

Classic CD Review【器楽曲 (ヴァイオリン)】

「ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第9番《クロイツェル》、フランク:ヴァイオリン・ソナタ、他 /五嶋龍(ヴァイオリン)、マイケル・ドゥセク(ピアノ)」(ユニバーサル ミュージック、デッカ/UCCG-1698〜9)
 五嶋龍、久し振りのCDリリースである。最初のCDを出してから10年目、今回が5タイトル目だと思う。音楽好きの家庭に生まれたのだが、彼の履歴を見ると知らない人は先ず驚くに違いない。1988年ニューヨーク生まれ、7歳の時米国でコンサート・デビュー、その後日本を含め世界各地の有名オーケストラと協演、2005年にメジャー・レーベルのドイツ・グラモフォンと専属契約を結ぶ。ハーバード大学物理学科卒業、日本空手協会参段、世界各国で社会貢献、教育活動に取り組む、云々。現在日本音楽財団から貸与された1722年製のストラデヴァリウス「ジュピター」を使用している。
 龍の演奏は「クロイツェル」では序奏での優しいムードが、主部に入ると一変して表現の中に非常に強い意志の存在を感じる。これは彼の成長の証であろう。そして優しく楽しげな第2楽章を経て、終楽章では強い若さが溢れる演奏となり最後は満足げに終わる。2枚目のフランクのソナタは「クロイツェル」に較べ一段と成熟味を感じる演奏だ。遅咲きのフランクが晩年に書いた曲の神髄に触れた見事な好演である。余白に入っているヴィエニャフスキの創作主題による華麗なる変奏曲は超絶技巧を必要とするが彼は楽しみながら弾いているようだ。最後の「タイスの瞑想曲」は美しいアンコールと言える。(廣兼 正明)

Classic CD Review【器楽曲 (ヴァイオリン)】

「ザ・ラスト・リサイタル / ヤッシャ・ハイフェッツ(ヴァイオリン)、ブルックス・スミス(ピアノ)」 (ソニーミュージックジャパン・インターナショナル、ソニーミュージック/SICC-1796~7)
  この4月22日にソニーミュージックより昔から人気のあったLPを「ソニークラシカル名盤コレクション1000」と銘打ち、1000円盤のCDシリーズとして新たに編集し直した50タイトルが発売された。ここでは筆者も初めて耳にする3タイトルを採り上げてみた。最初はハイフェッツである。
これは流石にハイフェッツだと言わざるを得ない。71歳になってもこれだけの演奏が出来るのはハイフェッツを置いて誰がいるだろうか。この歳になっても天才でしかない。未だに音程の良さには唖然としてしまう。ヴァイオリンの音程の良さは奏者が音を如何に速く修正出来るかで決まると言う。収録されている曲にサラサーテのツィゴイネルワイゼン、サンサーンスの序奏とロンド・カプリツィオーソやバッハのシャコンヌなどはないが、この日最後のプログラムであるラヴェルの「ツィガーヌ」にはその演奏の凄さを感じると共に聴衆のアンコールを求める反応の大きさに驚く。そこには彼独特のスピッカートやポルタメント、加えて速いヴィヴラートが懐かしいハイフェッツを想い出させてくれる。特にクライスラーの「カルティエのスタイルによる狩り」などは、全く崩れておらず、まさにハイフェッツ・スタイルの典型と言える。ハイフェッツ嫌いな人はこんなところが気に食わないのではないだろうか。このCDは未来永劫ハイフェッツの最新盤である。(廣兼 正明)

Classic CD Review【器楽曲 (ヴァイオリン)】

「アンコール集 / レオニード・コーガン(ヴァイオリン)、アンドレイ・ムイトニク(ピアノ)」 (ソニーミュージックジャパン・インターナショナル、ソニーミュージック/SICC-1818)
 2番目は当時アメリカや西ヨーロッパからクラシック・ファン待望の大物演奏家が来日し始め、日本でもピアノのコルトー、ギーセーキングなどを先達として本場の生演奏が身近に聴くことが出来る時代になった頃、鉄のカーテンの向こうのソヴィエトではヴァイオリンのダビッド・オイストラフ、レオニード・コーガン、ピアノのレフ・オボーリン、スヴヤトスラフ・リヒテル、指揮者のエフゲニ・ムラヴィンスキー、バスのイワン・ペトロフなどの決して西側に負けない素晴らしいアーティストが数多くおり、国内と東ヨーロッパ各地で活躍していた。その中でヴァイオリンのD.オイストラフとL.コーガンは全く異なる類いのヴァイオリニストである。オイストラフは大器晩成型でコーガンは天才型、オイストラフは弓を持つ手の肘を下げる古めかしいスタイル、そしてコーガンは肘を上げる近代的スタイルでヨアヒムの孫弟子である。
 このCDを収録した時は油の乗り切った34歳であり、15曲の収録曲すべてに瑞々しさが漲っている。以前からソヴィエトの最も卓越したヴァイオリニストという印象が強かったが、今回聴いてみてもその印象はまったく変わることがない。そして1958年レコーディングの割には録音の古さは全く感じない。尚、今回初めて聴くことが出来る「ハンガリー舞曲第1番」を含め曲目は以下の通りである。ナルディーニ:アダージョ、ショスタコヴィチ:4つの前奏曲、メンデルスゾーン:五月のそよ風、クライスラー:ウィーン奇想曲、ハチャトゥリアン:「ガイーヌ」よりアイシュの踊り、ヴュータン:4つの小品よりロンディーノ、ドビュッシー:月の光、プロコフィエフ:バレエ「ロメオとジュリエット」より仮面劇、ブロッホ:ニーグン、ブラームス:ハンガリー舞曲第1番、グラズノフ:「ライモンダ」より間奏曲、サラサーテ:ハスク奇想曲。(廣兼 正明)

Classic CD Review【器楽曲(ピアノ)】

「トルコ行進曲〜ラフマニノフ愛想曲集 / セルゲイ・ラフマニノフ(ピアノ)」 (ソニーミュージックジャパン・インターナショナル、ソニーミュージック/SICC-1831))
 「ソニークラシカル名盤コレクション1000」の3番目は代表作のピアノ協奏曲第2番などのピアノ曲をはじめとして、歌曲、合唱曲、交響曲など多くの佳曲を残したラフマニノフは、20世紀を代表する偉大なヴィルトゥオーゾ・ピアニストとしても有名だった。没年が1943年だったこともあって、自作のピアノ協奏曲全曲など多くの曲がSPの形で当時のRCAに残されている。その中で今回CDに復刻されたのは自作ではなく、彼が好んで弾いたとされる小曲が17曲である。例えばJ.S.バッハ:サラバンド(パルティータ第4番)、ヘンデル:調子の良い鍛冶屋、モーツァルト:トルコ行進曲、ショパン:乙女の願い、シューベルト:セレナード、メンデルスゾーン:紡ぎ歌、グルック:メロディ、パテ゜レフスキ:メヌエット、J.シュトラウスⅡ:ワルツ「人生は一度だけ」など、まさかラフマニノフがこんな曲を、である。聴いてみると間の取り方一つ取っても何とも古めかしい、しかしそれよりもこの一枚は我々に残してくれたラフマニノフ最高の遺産ではなかろうか。(廣兼 正明)

Classic CD Review【器楽曲(ピアノ)】

「シューベルト:幻想曲集 ピアノ・ソナタ ト長調 D894《幻想ソナタ》、ハンガリーのメロディ ロ短調 D817、4手連弾のための幻想曲 ヘ短調 D940、4手連弾のためのアレグロ イ短調 D947《人生の嵐》」 / ダヴィット・フレイ(ピアノ)、ジャック・ルヴィエ(ピアノ、1〜4)」(ワーナーミュージック・ジャパン、ワーナー・クラシックス/WPCS-13054)
 今最も世界の音楽ファンから注目を集めているのが、1981年生まれのフランス人ピアニスト、ダヴィッド・フレイである。ピアノの貴公子と言われ、バッハから現代音楽までのレパートリーの広さを持ち、異常ともいえる演奏会での弾き方、彼独自の変わった音楽解釈等、普通のピアニストとの相違点はファンの間でも数多く語られている。彼の演奏は全て彼の信念に基づいており、その再現される音楽は繊細、且つ純真さによって作られている。だから彼の絶妙とも言える演奏表現の虜になったファンは数多い。さて今回のシューベルト晩年の作品(特に最初の「幻想ソナタ」)でフレイはエレガントなエスプリに溢れたムードに充分に浸らせてくれる。2曲目のハンガリーのメロディでもフレイはエレガントで美しい音を聴かせてくれる。最後2曲の4手連弾の相手は、フレイがパリのコンセルヴァトワール時代の師デアッタジャック・ルヴィエで、ここでは師弟の気の合った見事な連弾を聴くことが出来る。(廣兼 正明)

Classic CD Review【器楽曲(ハープ)】

「クザヴィエ・ドゥ・メストレ モルダウ〜ロマンティック・ソロ・アルバム / クザヴィエ・ドゥ・メストレ(ハープ)」 (ソニーミュージックジャパン・インターナショナル、ソニーミュージック/SICC-30222)
 ハープの音色は気持ちを落ち着かせる。2010までウィーン・フィルの首席・ソロ・ハーピストを務めていたメストレが6枚目のCDをリリースした。このソロ・アルバムに入っているのは、スメタナ:モルダウ、リスト:2つのロシア民謡より「ウグイス」、プロコフィエフ:バレエ「ロメオとジュリエット」組曲第3番より「朝の歌」、組曲第2番より「モンタギュー家とキャプレット家」、リャードフ:「音楽の玉手箱(おどけたワルツ)」、ワルター=キューネ:歌劇「エフゲニー・オネーギン」の主題による幻想曲、チャイコフスキー:「くるみ割り人形」組曲より「こんべい糖の踊り」、ハチャトゥリアン:2つの小品より「東洋的な踊り」、「トッカータ」、グリンカ:夜想曲、ドヴォルザーク:組曲 イ長調。
 9歳からハープを始め、世界的なハープ・コンクールの優勝を数多く獲得したメストレの素晴らしい演奏は今や世界一と言える。ジュリアードや桐朋をはじめとして世界各地の有名音楽大学、音楽院で行っている彼のマスタークラスは数多い。彼の弾くハープの音は実に切れが良く美しい。そしてそのテクニックは完璧を極め、音楽性も素晴らしい。力強さと繊細さを併せ持った希有のハーピストと言ってよいだろう。(廣兼 正明)

Classic CONCERT Review【器楽 (ヴィオラ)】

「牧野葵美ヴィオラ・リサイタル / 牧野葵美(ヴィオラ)、有吉亮治(ピアノ)」(3月23日、紀尾井ホール)
 近頃は昔と異なり女性ヴィオリストの活躍が目立ってきた。牧野は大阪の相愛大学を卒業後ヴァイオリンからヴィオラに転向し、ローム ミュージック ファンデーション奨学生としてジュネーヴ高等音楽院に留学し今井信子に師事、その後2012年に東京国際ヴィオラコンクールで第3位入賞し、1992年に今井信子の提唱で創られたヴィオラスペースなどにも出演を重ねるなど地道にその存在感を示し始めている若手ヴィオリストのひとりである。
 この日のコンサートで牧野はヴィオリストにとっては可成り意欲的と言えるプログラムを披露した。それは前半にフランク・ブリッジのヴィオラ曲「ペンシェロ」と「アレグロ・アパッショナート」、細川俊夫の「ヴィオラのための哀歌〜東日本大震災の犠牲者に捧げる」、今井信子がヴィオラ用にアレンジしたブリテンの「無伴奏チェロ組曲第2番」の3曲を、そしてシューベルトの「アルペジョーネ・ソナタ」とジンバリストがサラサーテの曲をヴィオラ用に書き直した「サラサーテアーナ」のメロディックな2曲を後半に置いた。牧野自身は今回のリサイタルでは若い時しか出来ない曲をヴィオラで如何に表現するかを目標にしていたと言う。ヴァイオリンやチェロの様にリサイタルでプログラムに載せる事が出来るオリジナル曲は極少ない。今回のメイン曲とも言えるシューベルトの「アルペジョーネ・ソナタ」はJ.S.バッハの「無伴奏チェロ組曲」と共にヴィオラのレパートリーには欠かせない曲だが、これはその類い希なシューベルトの美しいメロディがヴィオラに合っているからであろう。牧野はこのアルペジョーネを牧野は見事なボウイングで美しく表現することに成功した。決して大柄ではないが、彼女にとっては大きめの楽器を十分に鳴らした豊かな音で楽しませてくれた。ピアノの有吉亮治の室内楽に長けたサポートも見事。
(廣兼 正明)
写真:(公財)新日鉄住金文化財団

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「日本フィルハーモニー交響楽団 第668回 東京定期演奏会(ラザレフが刻むロシアの魂)」(3月21日、サントリーホール)
 この日のテーマは《SeasonⅢ ショスタコーヴィチ2》で、2008年から日本フィルの首席指揮者に就任していたアレクサンドル・ラザレフにとっては、2011年に再契約後、意欲的に取り組んできたものである。1曲目の「ピアノ協奏曲第2番ヘ長調作品102」は、妻を亡くした作曲家ショスタコーヴィチが息子マクシムの19歳の誕生日にモスクワで初演された曲である。ピアニストのイワン・ルージンは1982年生まれで今年33歳、5歳から特別音楽学校に入学し、10歳でオーケストラとの初共演を果たしたという英才教育の申し子のような青年である。8分の7拍子による舞曲風の曲も難なくこなし、弾くのが楽しくて楽しくてついつい指が速く動き過ぎて転びそうになるが、その時には父親のようなラザレフがその興奮をそっとたしなめていた。プログラム後半の「交響曲第11番ト短調作品103《1905年》」では、ラザレフが伝えたかった「ロシアの魂」が遺憾なく発揮された。11番は1905年の第一次ロシア革命の50周年を記念する作品として構想されたが、実際に作曲されたのは2年後であり、初演は1957年10月30日〈1917年の革命40周年を祝う日〉にモスクワでようやく陽の目をみたのである。ロシアという国がたどって来た永い歴史に思いをはせる時、北は広大なツンドラに続く寒冷地、南には肥沃な農耕地帯、東西の文化の往きかう多様な民族の人々の生活に想いが到る。第4楽章の「警鐘」は、ショスタコーヴィチの曲を通して、ラザレフが今の時代の私達に何を伝えたいのかということを改めて考えさせられた。チェロのピチカートに乗ってヴィオラがpppで演奏している時、満員の聴衆は咳払いするのも忘れ、聴き入っていた。(斎藤 好司)
写真:(c)山口敦

Classic CONCERT Review【室内楽】

「古典音楽協会 第150回定期演奏会」(3月27日、東京文化会館小ホール)
 古典音楽協会室内合奏団は、その名の通り「古典」にこだわり、創立者である故三瓶十郎氏の遺志を引き継いで演奏会を続けてきて、一昨年には60周年の節目を越えて、今回150回を迎えた。当日のプログラムはテレマンの組曲「ドンキホーテ」ト長調・バストンのリコーダー協奏曲第1番ト長調・ヴィヴ゛ァルディの二つのヴァイオリンの協奏曲二短調・ジェミニアーニの合奏協奏曲二短調「ラ・フォリア」・J,S,バッハのブランデンブルク協奏曲第5番二長調であった。メンバー構成はコンサート・マスター角道徹、ヴアイオリン新谷絵美・中藤節子・石橋敦子・今村恭子・山元操・中嶋斉子、ヴィオラ東義直・梯孝則、チェロ重松正昭・前田善彦、コントラバス田中洪至、、リコーダー片岡正美、フルート大澤明子、チェンバロ佐藤征子、同人三瓶詠子であった。ブログラム最後のブランデンブルク協奏曲は、当時はバッハ自身がチェンバロを演奏していたかも知れないと思われるような見事な演奏であった。小さく「二人の喜寿を感謝して」とのメッセージが書かれていて、この合奏団の古典音楽に対する敬虔な姿勢と、会場に足を運んでくれた聴衆への感謝の思いが伝わってくるような温かい演奏会であった。(斎藤 好司)
写真:小野澤 允

Classic CONCERT Review【ピアノ】

「東京・春・音楽祭 エリーザベト・レオンスカヤ ピアノ・リサイタル〜シューベルト、後期三大ソナタ」(3月28日、東京文化会館小ホール)
 32年ぶりの日本でのリサイタルという。エリーザベト・レオンスカヤのシューベルト後期三大ソナタは本当に素晴らしい演奏会だった。
死の二か月前に作曲された3曲のソナタ。レオンスカヤの演奏からはシューベルトの希望、勇気、絶望、迫りくる運命に身を任せる諦念が感じられ、ついには彼岸の世界で自由に遊ぶシューベルトの姿が見えるようだった。
 第19番の第1楽章からすぐにシューベルト独特の心動かされる転調と歌の世界に入っていく。提示部の繰り返しは3曲とも行われた。第2楽章でピアノが美しく歌う世界は「美しき水車小屋の娘」の悲しい物語を思わせる。全休止のあとテンポが変わる第4楽章の展開部は空にかかる虹のような美しさと儚さが感じられた。
 これほど美しくバランスよく鳴らすことのできるピアニストは少ないのではないだろうか。タッチはやわらかく、美しいレガートをつくりだす。羽根が生えたような弱音やトリル、そして珠を転がすような美しい高音部。強打は力強いが丸みを帯び刺々しさはない。柔軟な身体の動きがあり、クロスの指使いも美しくすばらしい。これまで聴いてきた多くのピアニストの中でも別格とも言えるほど音楽そして歌に満ちている。
第20番冒頭の強い打鍵はリヒテル(生演奏を聴いたことはないが)を思わせる。第2楽章アンダンティーノの哀しい歌を聴いていると、シューベルトがどこか遠くへ行ってしまうような気持になる。中間部の32分音符や激しいスケールと共に3度叩かれる打鍵のインパクトは強烈だった。シューベルトは死の宣告を受け、絶望の極みに立たされたのか。形を変えたアンダンティーノの再現ではシューベルトが自死の場を求めてさ迷い歩く姿が見えるようだ。第4楽章のロンドは、シューベルトが幸せだった人生を振り返っているようなやさしい気持ちになるが、最後の全休止は恐ろしい。幸せが突然黒い雲に覆われる。それでも前に進もうという勇気だけはコーダに込められる。
 第21番はベートーヴェンの束縛から解き放たれたシューベルトが現世を超え、彼岸に向かい、今やそこで自由に遊ぶ姿が見えた気がした。第1楽章の不気味なトリルにはもう恐ろしさはない。それよりもどこまでも歌い続ける第2主題に乗せて上へ上へと向かう力が働く。最後の不気味なトリルの暗さもシューベルトは意に介さないようだ。第2楽章の3オクターヴに渡ってクロスされた左手が刻む美しいスタッカートの高音とともに紡がれる主題では、シューベルトが大空に舞い上がっていくように感じられた。第3楽章スケルツォのトリオではこの世ではないものが垣間見えた。第4楽章は浮世のしがらみから解き放たれたシューベルトが自由に遊び、叫び、発散しているようだった。
 シューベルトの世界をここまで深く表現し、シューベルトの真情を聴かせてくれたレオンスカヤには脱帽するしかない。アンコールの即興曲2曲(作品90の4と3)はありがたいが、深い余韻を残す意味でソナタだけで終わっても良かったのではないだろうか。いずれにしても忘れられないリサイタルだった。(長谷川 京介)
撮影:青柳聡
提供:東京・春・音楽祭

Classic CONCERT Review【楽劇】

「東京・春・音楽祭 ワーグナー:《ニーベルングの指輪》第1日〈ワルキューレ〉」(4月4日、東京文化会館大ホール)
 歌手陣が文句なしに素晴らしかった。1999年ウィーンのシュターツオパーで見た同じくワルトラウト・マイヤーがジークリンデを歌った「ワルキューレ」(指揮:準・メルクル)と較べて遜色がないどころか、出演者全員の熱唱とマレク・ヤノフスキ指揮N響の精緻な演奏により、それを大きく凌駕する感動をもたらした。
 ジークリンデ役のマイヤーの存在感は別格だ。演奏会形式とは言え、表情や仕草から深い心情が伝わってくる。第1、2幕では低音がややくぐもるところがあり必ずしも万全の体調ではないようだったが、第3幕で身ごもった子をブリュンヒルデにより「ジークフリート」と名付けられ歌う救済のモチーフ「こよなく貴い奇蹟よ!(O hehrstes Wunder!)」の強い声の持つ迫力、感情表現の深さには圧倒される。
 ジークムント役のロバート・ディーン・スミスは絶好調。第1幕父の名「ヴェルゼ」を叫ぶところ、「春の嵐は過ぎ去り」などでの伸びと張りのある歌唱に魅了されてしまう。なにより英雄的であり時に人間的な弱さを感じさせるジークムントの役がぴったりの容姿と表現力が素晴らしい。
 フリッカ役のエリーザベト・クールマンが光っていた。ベル・カント的ではあるが良く伸びる美しい声は強靭な響きを持っており、ヴォータンがたじたじとなる怖さ恐ろしさをはっきりと打ち出し、終演後の拍手喝さいがすごかった。
 ヴォータン役のエギリス・シリンスは歌の表情や威厳はあまり感じられないものの、安定しておりその力強さは終始変わらない。
 ブリュンヒルデ役のキャサリン・フォスターも声量、表現力とも文句なし。いかにもブリュンヒルデらしい純粋さと悩みぬく姿を好演していた。
 声量で圧倒したのはフンディング役のシム・インスン。その大きな身体から発せられる声は5列目で聴くと身体が震えるようなエネルギーがある。
 海外のアーティストたちの声量、存在感と較べると日本の歌手陣によるワルキューレたちはスケールが一回りも二回りも小さく感じられる。中ではゲルヒルデの小川里美が健闘していた。
 しかし、何と言っても今回の「ワルキューレ」を大成功に導いた要因がマレク・ヤノフスキの指揮とそれに応えたN響にあることも確かだろう。
 ベルリン放送響との演奏会形式によるワーグナー・シリーズで培った実績と知見、歌劇場での豊富な経験に裏付けられた絶大な指導力で、N響から透明感のある見通しのよい音楽を引き出す。歌手たちとオーケストラの響きのバランス、たとえば「ワルキューレの騎行」で歌手をじゃましない音量のコントロールなどは見事というしかない。「ワルキューレ」のオーケストレーションがいかに素晴らしいかを精妙な指揮で描き出す。そこには過剰な響きや音の混濁はなく、歌手と共に壮大なしかし細かな細工まで浮き上がるような「ワルキューレ」が構築されていた。
 ゲスト・コンサートマスターのライナー・キュッヒルの存在はヤノフスキにとってこれ以上ない助けとなり信頼を置くところになっていた。一体キュッヒルは何度「ワルキューレ」でウィーン国立歌劇場のピットに入ったことだろう。オーケストラと歌唱の隅々まで熟知しているさまは、たとえばヴァイオリンが休んでいる間に他の楽器のフレーズに合わせ弓で譜面を軽くタップしている姿からもうかがえる。
 キュッヒルがヴァイオリンを弾く様子はすさまじい集中という言葉に尽きる。
 ほかのヴァイオリン奏者の動きが緩慢に見えるほどの没入ぶり。その影響力は強力で、N響の弦がいつも以上に艶やかに、また強靭に聞こえた。弦と言えばこの日のN響のチェロ群は良かった。第1幕前奏曲の低音域の推進力をはじめ、その弾力性と強さに艶やかさがブレンドされた音色はN響から初めて聴くような気がする。第1幕でジークムントとジークリンデが見つめ合う背景に流れるチェロのソロ(銅銀久弥)がその音を代表していた。ヤノフスキは終演後立たせていた。
 金管群特に8台のホルンも安定していたし、木管群のソロも全て印象に残るものだった。6台のハープもワーグナーの指示通り。
 これほどのワーグナーを聴けたのは望外の喜びで、終演後の会場全体のスタンディング・オベイションも、オペラ公演ではなかなか目にすることのない光景だった。(長谷川 京介)
撮影:堀田力丸
提供:東京・春・音楽祭

Classic CONCERT Review【室内楽】

「青木尚佳と仲間達〜音楽ネットワーク えん 第125回ディスカヴァリーコンサート」(4月5日、スタジオ・リリカ)
 音楽ネットワーク「えん」は佐伯隆氏が主宰する1992年発足の個人宅やイベントスペースでサロンコンサートを行う市民グループ。これまで500回近くものコンサートを行ってきたが、著名なアーティストだけではなく佐伯氏の目にかなう若手アーティストも積極的に紹介してきた。
 今回は2014年ロン=ディボー国際音楽コンクール2位入賞のヴァイオリニスト青木尚佳(あおきなおか)を中心とした室内楽。大江馨(ヴァイオリン)、土岐祐奈(ヴァイオリン)、徳田真侑(ヴァイオリン)、松実健太(ヴィオラ)、鈴木慧悟(ヴィオラ)、長谷川彰子(チェロ)、福崎(鎌田)茉莉子(チェロ)というメンバーは佐伯氏が主に選んだ。驚いたのはお互い初対面の奏者が多かったということで、しかもメンバーの病気などもあり実質的なリハーサルは2日間だったという。それにしては全員のまとまりは立派で、青木が言う「室内楽に慣れたメンバー」が集まったためだろう。
 演奏はメンデルスゾーンの弦楽八重奏曲が素晴らしかった。若い奏者たちの爆発的なパワーと作品がもつ溌剌とした音楽がぴたりと合い、まるでロックコンサートを聴いているような興奮と乗りの良さを味わえた。
 各奏者ははっきりと主張しながら同時にアンサンブルも合わせる。それはジャズのソロプレイヤーと他の奏者のかけ合いのようでもあり、一人の奏者の仕掛けに他が応えるという熱いやりとりは室内楽の醍醐味を味あわせてくれた。特に第4楽章の二重フガートの各奏者のかけ合いは迫力があった。第4楽章は聴衆のリクエストでアンコールされた。
 1曲目のブラームスの弦楽六重奏曲第1番は、各奏者の「自分はこう弾きたい」という思いが強く出過ぎていて、アンサンブルのまとまりや音色の美しさとは違うものになっていた。しかし、それがブラームスの情熱的な側面を露わにする効果もあり、こういう行き方もあるのかという発見があった。
 青木尚佳のエネルギッシュに他の奏者を引っ張って行くリーダーぶりは、英国王立大学で室内楽に積極的に取り組んでいる成果が出たものだと思う。
 シュポーアの2つのヴァイオリンのための二重奏曲 ニ長調は初めて聴いたが、数少ないヴァイオリン2挺だけのレパートリーのひとつ。土岐祐奈と徳田真侑の息の合った演奏を聴くことができた。
(写真前列左から:長谷川彰子(チェロ)、徳田真侑(ヴァイオリン)。後列左から:大江馨(ヴァイオリン)、福崎(鎌田)茉莉子(チェロ)、青木尚佳(ヴァイオリン)、鈴木慧悟(ヴィオラ)、松実健太(ヴィオラ)、土岐祐奈(ヴァイオリン)。(長谷川 京介)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「大野和士 都響音楽監督就任披露コンサート マーラー:交響曲第7番《夜の歌》」(4月8日、東京文化会館)
 音楽監督就任のコンサートということでチケット完売の東京文化会館には開演前から入場を待つ長い列ができた。普段見ない長さで、そこには聴衆の期待の大きさが表れていた。しかし、私の個人的な期待は満たされなかったということになる。
 どういう点が不満だったか。一言で言えば、豊潤さや幻想性に欠け、マーラーの魑魅魍魎的な世界に耽溺することができなかったためだ。
 具体的には、ギスギスとした艶のない弦、特にヴァイオリン群の薄い響き。金管の突き刺さるような音に潤いや奥行きが感じられなかったこと。どこかせかせかとした落ち着きのない音楽の進め方。以上の点が重なり感銘を得ることができなかった。
 インバルのマーラー・ツィクルスは曲によって解釈に納得できないところもあったが、少なくとも都響の演奏自体に不満を持つことはなかった。ところが今回はオーケストラの響き自体に魅力が感じられなかった。
 確かに第2、3、4楽章では、プレトークで大野和士が語った「怪奇的」「霊」「影」といったこの曲の性格がそれなりに表れていた。
 第2楽章冒頭の2つのホルンのやりとりを<夜警の応答を表す>と大野は解説したが、弱奏のホルンが舞台裏から応える響きはそのイメージ通りだった。また第1トリオでチェロが奏でる主題の響きも味わいがあり良かった。
 第3楽章スケルツォについて大野は<怪奇的、悪魔、霊が飛び交う>と表現していたが、それほどの戦慄を感じさせるものではなかった。
 第4楽章は<愛の二重唱、ひそやかな影の世界>と解説したが、ギターとマンドリンが醸し出す世界はその通りだろう。
 第5楽章にはオッフェンバックの「地獄のオルフェ(天国と地獄)」の「カンカン」が引用されていると大野は語ったが確かにそれらしい旋律が確認できた。
しかし、全体的には大野和士の解説(漆黒の「夜」の交響曲というイメージ)と実際の演奏の印象は違った。
 ひょっとすると、大野和士は豊潤なオーケストラの響きによる幻想的なマーラーではなく、あえて痩せてギスギスとした「夜の歌」を演奏することで怪奇な白昼夢のようなマーラーを強調しようとしたのかもしれない。
 であるとすれば、大野和士はそこまで踏み込んで話すべきだっただろうか。大野和士はプレトークの最後にこの交響曲をどう聴くかはみなさんにお任せしますという趣旨の話をした。今回の演奏をどう感じどう捉えるかは我々聴き手に委ねられたということだろう。(長谷川 京介)
写真:(c)堀田力丸

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 第288回定期演奏会」(4月11日、東京オペラシティ・コンサートホール)
 創立40周年を迎えた東京シティ・フィルは、常任指揮者に高関健が就任。高関健はこれまで、札幌、群馬、大阪、広島等、地域に根ざしたオーケストラと共に活動し、それらの楽団を常に向上させてきた。高関健のコンサートを数多く聴いてきたが、彼が東京で重要な役割を担うのは初めての経験とのこと。信じられない思いである。
 高関健は、プログラム・ノートに「・・・作品の本質に迫る演奏を心がけている・・・」と記しているが、今回のスメタナの「わが祖国」全曲も、たくましい生命力を率直に盛り上げ、作曲者の躍動をうつして、実に生き生きとした演奏であった。表現は堅実、そして区切りごとにしっかりとけじめをつけて、楽想を畳重ねて力強く音楽を進めてゆく。
 前半では、「ヴァルタヴァ(モルダウ)」が美しく、特にシティ・フィルの弦楽器の高音域がきれいに響き、それを包み込むように奏でる管楽器の表情の豊かさも聴きごたえがあった。すみずみまで心を通わせた演奏とでも言えば良いのであろうか。
 前半の三曲が終わっても、後半が待ち遠しく、オーケストラも疲れを見せず、終曲の「ブラニーク」まで、整ったバランスを保ち、飽きさせないで聴かせたのである。特に第五曲の「ターボル」が印象に残ったが、ここでは、オーケストラにも音楽的な霊感が乗り移ったようで、戦闘の様子が目に浮かんでくるような感じであった。
 今後のシティ・フィルは、常任指揮者の高関健と、桂冠名誉指揮者の飯守泰次郎の両者で、半分を超える定期を指揮してゆくとの事。創立40周年を迎えるシティ・フィルは今後どのような方向に進んでいくのであろうか。新たな地平を切り開いてゆくことを期待したい。(藤村貴彦)
写真:(c)MasahideSato

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「高関健東京シティ・フィル常任指揮者就任披露演奏会 スメタナ:《わが祖国》(4月11日、東京オペラシティ・コンサートホール)
 大変な名演だった。常任指揮者就任披露演奏会としては大成功で、高関健と東京シティ・フィルにとって素晴らしい船出となった。
スコアの徹底した読み込みから生まれる作品の本質に迫る深い表現。音楽にいのちを吹き込むことで生まれる、ほとばしる勢いのある演奏。そしてオーケストラコントロールの見事さ。これほど充実した「わが祖国」が日本のオーケストラによって成し遂げられたことに感動を覚えた。
 高関健のバランスのコントロールは見事。総奏の中でも木管群がくっきりと浮かび上がる。対抗配置のヴァイオリン群やそのほかの弦の対位法的での重層的な響きが精妙に保たれ、表情が細やか。弦の音色もかつての東京シティ・フィルのざらざらとした粗さがとれ、絹のような響きをまとい、生まれ変わったような洗練された音に変身していた。
 最強音の強さと深さ、そこから最弱音への切り替え、場面転換の早さは鋭どく、またディミヌエンドしていく表情の変化も細やかだ。
 第1曲「高い城」にはまだ硬さがあったが、第2曲「ヴァルタヴァ(モルダウ)」から見違えるように音楽が流れ始め、休憩をはさんでそのまま最後までその流れと集中力が切れることはなかった。モルダウのフルートの二重奏の冒頭から音にみずみずしさが宿り、主題を奏でる弦は滑らかで絹の感触を持つ。狩猟のホルンの響きも悠然として奥行きがあり、農民たちの婚礼の踊りの生き生きとしたリズムと表情は踊り出したくなるような乗りの良さ。チェコのオーケストラに負けない民族的な味わいがある。「月の光と妖精の踊り」の弦のきめの細かい響きも素晴らしい。さらにモルダウが急流となって流れる場面の総奏の迫力も唖然とするばかり。
 第3曲「シャルカ」。この女性戦士を表すクラリネットのソロと敵の騎士、スティラートを表現するチェロのソロが素晴らしい。両者の対話から弦の対位法となり民族的な舞曲になって行く過程も見事に描かれる。このあたりの響きが日本のオーケストラではないように思われる。眠り込んだ兵士を表すファゴットの低音の強調も面白い。そして女性戦士たちが急襲し騎士たちを全滅させる戦闘場面のクライマックスとコーダの和音の決然とした響きに、思わず1991年11月サントリーホールで聴いたクーベリック指揮のチェコ・フィルの演奏を思い出した。あの日も聴きながら「今ここで聴いている音楽は普通では聴けない特別なものだ」ということをひしひしと感じたが、この日の高関健東京シティ・フィルの演奏もまさに一期一会的な感慨を持つものだった。
 前半で早くもブラヴォが飛ぶ。
 第4番「ボヘミアの森と草原から」。弱音器をつけたヴァイオリンの主題から始まる牧場の風景の対位法的な部分は対抗配置にしたヴァイオリンの効果が大きい。収穫祭の農民のポルカの素朴な表情も目の前に農民たちの姿が浮かんでくるほど民族的な味わい、匂い、空気が感じられる。
 対をなす第5曲「ターボル」と第6曲「ブラニーク」は圧倒的だった。
 フス国の讃美歌「汝ら、神の戦士たち」の主題の力強さと鋭さ。ティンパニの打音と金管の輝かしさ。戦闘場面で断ち切るように響く総奏の切れ味と緊張感は鋭い。
 第5曲から間髪を置かず入る第6番「ブラニーク」冒頭のティンパニの強打とオーケストラの強奏のインパクトには震撼させられる。
 スタッカートの弦の主題はその重々しさが良く出ている。羊飼いのオーボエとそれにからむ他の木管、そしてホルンのやりとりも全く混濁がなく、明快に聞こえる。惜しかったのはそのあとの戦闘場面のあとのもうひとつの讃美歌を吹くホルンが完璧ではなかったこと。しかしこれは演奏の中では本当に些細な部分であり、全体にホルンの健闘ぶりを讃えたい。
 コーダに向かって第1曲「高い城」のテーマが感動的に奏でられ、讃美歌の旋律とともに高らかに終わる。高関健のタクトが降りるまで保たれた静寂は素晴らしい。そのあとのブラヴォの嵐と拍手は高関健と東京シティ・フィルの出発を祝福する最高の贈り物となった。
 高関健がプログラムの挨拶で書いた言葉どおりの見事な演奏だった。
 「理由のない脚色をせずにスコアの細部を確かめ、作品自体に語らせるような演奏こそが、音楽を愛する聴衆の皆様の心に届くものと考えています。」
(長谷川京介)
写真:(c)MasahideSato

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「大野和士&都響 ベルリオーズ《レクイエム》(東京春祭 合唱の芸術シリーズ vol.2)」(4月12日、東京文化会館大ホール)
 この大曲を生演奏で聴く機会は少ない。私は今回初めて聴く。調べた限りでは91年にインバル&都響、92年に若杉弘&新日本フィル、94年小澤征爾&ボストン響、98年秋山和慶&東響、2002年にデュトワ&N響、2003年にゲルギエフ&読響があるが、ここ10年以上演奏されていないようだ。
ベルリオーズの指定では400人以上の演奏家、合唱団を必要とするが、今回は果たして何人だろう。合唱の東京オペラシンガーズは120人前後だろうか(指定は200人)。8対のティンパニなどがステージいっぱいに乗り、指揮台もオーケストラもステージぎりぎりまで配置されている。トランペット、トロンボーンからなるバンダは2階3階の左右の客席に計4か所。
ベルリオーズの「レクイエム」はプログラム解説にある通り、大音響が炸裂するのは第2曲「怒りの日」、第4曲「恐るべき王」、第6曲「ラクリモザ」の3曲だけで、ほかの7曲は「レクイエム」らしく静謐な合唱が続く。
大野和士の指揮は手堅く、格別の興奮や感動を呼び覚ますことなくたんたんと進んでいく。東京オペラシンガーズの合唱はハーモニーがそれほど美しく聞こえてこない。声量も小さく感じる。ダイナミックの幅、弱音と強音の落差が少ない。声が前に飛んでこない。ただ「恐るべき王」の最後のSalva me(どうぞ私をお救いください)と「オッフェルトリウム」の最後のpromisisti(約束なさったように)のハーモニーは美しいと思った。
聞かせどころ「怒りの日」の「驚くべきラッパの音が」で客席のバンダが四方八方からファンファーレを響かせるところは立体的な金管の響きに包まれる希少な体験はできたが、震撼するまでには至らない。
コンサート・マスターが矢部達哉のせいもあり、弦はインバルが指揮する時のようによく揃った美しい音を出していたが、やはりこの曲は合唱が肝だと思う。
心が震えるような感動を得られないまま、「サンクトゥス」まできてしまった。テノールのロバート・ディーン・スミスは舞台後方、合唱の後ろで歌ったが、結局彼の歌唱がこの日一番印象に残った。「ワルキューレ」のジークムントで聴かせてくれたきれいに伸びる張りのある声は存在感があった。
最後の「アニュス・デイ」のAmenが静かに歌われティンパニの打音がかすかに鳴らされて曲は終わり、大野和士のタクトが下りるまで静寂が続いたが、感動は起こらなかった。
ブラヴォも少ない。隣に座っていたカップルの会話「ブラヴォを叫ぶような演奏ではないわね」は手厳しいが、頷きたくなるものがあった。
会場で会った知人と「感動はしなかったね」と話していて、彼が言うには、ひとつにはベルリオーズの作品自体の持つ内容の問題、ふたつには東京文化会館のデッドな音響のせいではないかと。
確かにこの作品は自作の「荘厳ミサ」からの引用を二か所取り入れるなど短期間で作曲したベルリオーズの野心が先行した作品であり、レクイエムとしては深みに欠けるところがある。また初演のパリのアンヴァリットと東京文化会館では残響の点で雲泥の差があり、合唱の細やかな表情や豊かな弦の響きを生かすのは難しい。大野和士や東京オペラシンガーズばかりを責めるのは酷かもしれない。
 一つだけ気になったことがある。それは大野和士の力みかえった指揮だ。ゴルフのスイングでは力が入り過ぎると遠心力をうまく使えず飛距離は伸びない。指揮も似ているのではないか。大野和士の集中力は大変なものだが、あれだけテンション高く始終緊張を強いられるような指揮をされたら、弾く方も歌う方も体に力が入り、かえって響きが固くなってしまわないだろうか。僭越極まりないが、8日のマーラー交響曲第7番と今日のベルリオーズと続けて大野和士の指揮を聴いた正直な感想だ。(長谷川京介)
写真:堀田力丸
提供:東京・春・音楽祭

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「メッツマッハーと新日本フィルのヴァレーズ《アメリカ》」(4月17日、すみだトリフォニーホール)
 インゴ・メッツマッハーが新日本フィルを去る。世界中から引っ張りだこのメッツマッハーにとって新日本フィルのポジション(コンダクター・イン・レジデンス)は重きをなさなかったのか、あるいはメッツマッハーが希望する現代音楽中心のプログラムが思うように組めなかったことへの不満があったためかもしれない。最後のコンサートでようやく彼がやりたかったことが実現したように思える。
 ヴァレーズの「アメリカ」と日本初演となる「アルカナ」。その前後にR.シュトラウスの「ティル=オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」と「死と変容」を置くというプログラム。
 「アメリカ」は14人もの打楽器群(そのなかにはサイレンの音も含む)や9人のホルン、6人のトランペット、10台のコントラバスなど120人以上の演奏者を必要とする。ストラヴィンスキーの「春の祭典」を100倍くらい過激にしたような音の奔流と炸裂はビルの工事現場のクレーンの下に座っているような気持になる。サイレンはニューヨークの雑踏から聴こえるパトカーの音か。大音量から最弱音までのダイナミックの変化も激しい。メロディーらしきものは冒頭のアルト・フルートくらい。
 しかしメッツマッハーの指揮で聴くと、この破天荒な作品は非常に美しく繊細な音楽として響いてくる。マグマのようなエネルギーを持つ音も一定の枠組みの中で制御されており、騒音もひとつの思想、概念を持つ響きとして聞こえてくる。全体の響きそのものが不思議に美しく感じられ、音楽になっている。メッツマッハーの微に入り細を穿つオーケストラコントロールから生み出される精緻な演奏は作品の本質を明らかにしている。
 日本初演となる「アルカナ」は「アメリカ」をもっと抽象的にしたような、つまり民族的土着的な要素を取り去り、現代の装いを施したような作品と感じた。
ヴァレーズを挟んでR.シュトラウスを聴くと、二人の作曲家の間につながりが感じられる。2人は実際に交流があっただけではなく、響きの頂点を極めるという点で共通するものがある。
 「死と変容」はバランスを最後まで維持した繊細さを感じたが、「ティル」はまとまりに欠けた。おそらくヴァレーズにリハーサルが集中したためではないかと思う。コンサートの出だしは心配したが、めったに聴けないヴァレーズをあれだけ繊細に聴かせてもらえれば満足。メッツマッハーはやはり二人とない素晴らしい指揮者だ。またぜひ日本に来てほしい。たとえ別のオーケストラと一緒だとしても。(長谷川京介)
写真:(c)Harald Hoffmann

Classic CONCERT Review【ピアノ】

「小山実稚恵 デビュー30周年記念〜春〜」(4月18日、サントリーホール)
 小山実稚恵のデビュー30周年記念のコンサートは、藝大の同期である大野和士の指揮する都響と共に、ショパンのピアノ協奏曲第2番とラフマニノフの第3番が演奏された。最初にウェーバーの歌劇「オイリアンテ」序曲があった。
 ラフマニノフの3番が素晴らしかった。本人は高校大学時代から1日1回は聴かないと眠れないくらいこの曲が好きで、ゴージャスさとエンタテインメント性、繊細さに魅了されると言っているが、その言葉通りの豪華でスケールが大きい奥行きのある演奏になっていた。
 もうひとつ加えるならば、その演奏には小山実稚恵というピアニストの人間性が表れていた。どの音どのフレーズを聴いても小山実稚恵の音楽だと感じさせる誠実さ、温かみ、包容力、優しさがある。恐れ多いがこの日ラフマニノフを鑑賞された美智子皇后のお人柄に重なるものを感じる。
 第1楽章のカデンツァは圧倒的だったが、楽章全体はひとつひとつの音が丁寧に繊細に弾かれていた。第2楽章のロマンティックな主題の夢見るような表情は清らかな詩情があり、その優しさ繊細さに涙腺が緩む。うってかわって第3楽章では激しく煽るようなフレーズを強い打鍵で続けるが、その深みのある音は小山実稚恵が進化していることを感じさせる。抒情的な第2主題はラフマニノフ特有のロマンティシズムが充満しており、ここにも小山実稚恵が日々深めている音楽を感じた。
 コーダは男性的なまでに激しく圧倒的。小山実稚恵が言うエンタテインメント性とスリルを味わう。他のヴィルトゥオーゾ・ピアニストを凌駕する重厚さと安定感があり、大野和士都響とともにピークを築いた。
 ショパンの第2番はどこまでもたおやか。ショパンなら当時のピアノでそう弾いたかもしれないと思わせる繊細な響きとタッチ。そこにも間違いなく小山実稚恵の世界があった。(長谷川京介)
写真:(c) ND CHOW

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

「新交響楽団 第229回演奏会」(4月19日、東京芸術劇場コンサートホール)
 新交響楽団は1956年に創立され、故芥川也寸志の指導のもと、意欲的な活動を行ってきた。芥川の死後も、他のオーケストラではなかなか聴くことのできないプログラムと演奏内容である。今回の演奏会の内容も評判通り素晴らしい。
 プログラムの前半は、ショスタコーヴィチの「祝典序曲」と橋本國彦の「交響曲第2番」。指揮は湯浅卓雄である。「祝典序曲」が作曲されて経緯については二つの説があるとのこと。この作品はファンファーレが力強く、ここでは新交響楽団の管楽奏者の全員が、名人的技巧で大胆に吹きあらわして大きな効果をあげていたのが印象に残った。ホルンとチェロによる第二主題は、ホルンの豊かな表情に心ひかれ、弱音も美しい。プロのオーケストラからも滅多に聴くことのできない音楽である。
 橋本國彦の「交響曲第2番」は、戦後まもない1947年に初演され、以後忘れられ、そして再び発掘され、東京芸術大学での録音に至ったとのこと。この作曲家の叙情性と懐古的表現にみち、古風な響きからこの当時の気分とも言うべき世界に浸れることができたのは面白かった。
 湯浅卓雄は、これまでにナクソスで邦人作品を、他の日本の指揮者よりも数多く録音しており、彼は日本の作曲家を紹介することに使命を持っているのではないだろうか。今回の演奏についての良し悪しを記すのは難しいが、特に第2楽章の主題と六つの変奏は各楽想に音楽的意味が感じられ、純粋でのびのびした世界が伝わってきた。
 プラグラムの後半はショスタコーヴィチの「交響曲第10番」である。綿密な練習からくる緊張が力強い盛り上がりを見せ、まさに手に汗を握る箇所もあった。第2楽章と第4楽章のアレグロが凄く、気迫のこもった演奏であり、湯浅卓雄の強く表出してゆく姿勢に、この指揮者の非凡な才能を見ることができた。指揮者と楽団員も強く結ばれている様子が客席からも伝わってきた。湯浅卓雄は更に活躍してもらいたい指揮者である。(藤村貴彦)

Classic BOOK Review【君が代】

杜こなて 著〈「君が代」 日本文化史から読み解く〉平凡社新書 1月15日初版
 著者と同世代に生まれた私は、かつてあった新東宝映画者の戦争映画を、幼い頃よくみに行き、そこで特攻隊員が歌う「君が代」に不思議な思いをした経験がある。親に連れられ、相撲の千秋楽にアナウンサーが「・・・起立をお願いいたします。国歌斉唱。」という記憶も蘇る。「君が代」というと、私には不幸な思いが駆け巡り、戦争に駆り立てる道具のような気もしていたのである。
 学生時代に親しかった友人が、中学校の音楽の教師になり、彼は職員会議で卒業式に「君が代」を歌わせるかどうか、長い議論があったことを私に話してくれた。入学式や卒業式等で「君が代」斉唱時に起立しなかった教師も問題になったそうである。
 「君が代」に対しては一人一人、様々な考えがあると思うが、杜こなては時代を追って、日本の国歌に至る過程を丹念に考察し、複雑な事情が幾重にも絡み合っていることをわかりやすく記す。論文調にならず、特に著者の文化や歴史に関する考え方が伝わってきて、「君が代」に対して、読者は一味異なった思いをするだろう。「君が代」の「君」は天皇を指すような考えを、私は持っていたが、江戸時代の泰平の世に、目出度さを表す枕詞のような役割を担っていたとのことである。杜こなては次のように記す。「・・・平和や安寧を願う歌。相生の精神を歌う歌。衆生の幸せを祈る歌。共生の心根に通じる歌。・・・」。杜こなてによれば「君が代」の歌詞の根底にあるのは、平和を願う心が充満しているとのこと。
 この本で興味深かったのは、「君が代」を通してヨーロッパ、アジアの文化と比較しながら、文化史の流れをわかりやすく追っていることである。若い方々に一読をすすめたい。学校教育では、近代・現代の項目を授業の中で取り入れることが難しいと言われ、私も近代・現代の歴史を知らないできていたのである。杜こなては太平洋戦争に至るまでの道筋もわかりやすく記す。オリンピックで金メダルを獲得し、国家が奏されると同時に、若い人々が「君が代」を歌って戦地に赴くことがないことを願う。(藤村貴彦)