昨年 (2007) 11月に、黎さんという方からMPC経由でメールが届いた。黎という名字は、「夜来香」の作曲家・黎錦光 (リー・チン・クァン) 先生以外に知らないので、もしや黎先生の関係ではと思い、返信させて頂くと、黎先生の末娘の黎小芳 (リー・シャオ・ファン) さんだった。彼女は10代の頃に来日されて、作家の大野芳さん、歌手の胡美芳さん方と拙宅に見えたことがあった。小芳さんからは「あっという間に20年経ちました」と近況を記されたメールも頂いた。
思い起こせば、小芳さんたちが来宅された1987年の子供の日から更に8年遡る1979年の春、上海の黎錦光先生から自作の「夜来香」の著作権について、ビクターの総務部に照会があった。1949年、中国革命の激動の時代に、黎先生は香港の代理人を通して、日本の権利を5年契約でビクターに預けた経緯があった。5年経過後は、国交のない中国の曲は、日本では保護の対象になっていなかったので、レコード各社自由に使っていた。「上海に行ったら黎先生に説明してほしい」との総務部の依頼を受けて、その年の10月、中国唱片社との原盤契約交渉で北京に行った折りに上海に足を伸ばしたが、米中国交成立により、アメリカに帰化していた黎先生の実弟で、ロジャース&ハマースタインのブロードウェイ・ミュージカルにもなった「フラワー・ドラム・ソング」の作家C・Y・リーさんがカリフォルニアから里帰りされ、黎先生は北京に会いに発たれた後で、すれ違いに終わった。翌1980年10月訪中の時、黎先生が北京まで来て下さって初めてお会いした。
1907年生まれの黎先生は、その年73才になられていたが、中国唱片社上海分社の現役の音楽監督だった。1944年 (昭和19年)、上海百代唱片公司の事務所で、庭に咲く夜来香の花を見ながら作詞・作曲した曲の話をしてくれた。
「夜来香」という古い歌が既に存在し、民謡調の「売夜来香」という曲もあったが、これらをモチーフに、中国調に欧米風な新感覚を加えて軽快なテンポの曲に仕上げ、敢えて同名の「夜来香」の題で発表、満映 (満州映画協会) のスター女優だった李香蘭 (リー・シャン・ラン=山口淑子) の唄でレコード化したところ、空前の大当たりとなった。その年に軍属として上海に渡って音楽活動をしていた服部良一さんは、この曲に魅了され、3つの「夜来香」を合わせて一つの協奏曲に編曲した。終戦前夜の1945年7月、上海一の「大光明劇場」で「李香蘭ショー・夜来香ラプソディ」演奏会が開催され、熱狂した中国人ファンの歓声で劇場は沸き返り、重苦しい戦時色にひとときの安らぎを与えた。この催しを演出したのは、当時、日中合弁の映画会社「中華電影公司」にいた野口久光さん (後の音楽評論家) で、オーケストラのタクトを振ったのは、勿論、服部良一さんだった。黎先生は客席最前列で、この一大イベントを見守られたという。戦争を忘れたような華やかなショーから半月後、終戦となり日本人たちは引き揚げていった。
終戦後の混乱、中国革命、文革等で、日中間の連絡は途絶え、「あれから35年、日本の友人たちには、一度も会っていない。李香蘭、服部良一、野口久光、川喜多長政・かしこ夫妻、あの頃の音楽仲間に会いたい」と、消息を尋ねられた。日中平和友好条約も成立し、ようやく交流の機会も増えてきたとはいえ、この思いがけないご縁をきっかけに、黎先生の長年の願いを何とか早く実現させたい。著作権の問題は専門家に任すとして、筆者は黎先生と日本の友人たちとの再会の架け橋になりたいと強く願った。 (以下、次号)
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