2007年11月 

<Now and Then> 
そんな事がありました 3 ブロードウェイの灯が消えた夜 本田 悦久 (川上 博)
  2001年の同時多発テロの時、9月11日と12日の2日間、ブロードウェイで上演中の23作品がすべて上演中止になった。1963年のケネディー大統領暗殺事件の時も、1日だけブロードウェイの劇場をクローズして、喪に服
したことがあった。
 ところで筆者は1回、ブロードウェイ劇場街の灯が消えた夜に出くわしたことがある。それは、1975年9月18日のことだった。9月15日にマドリードからニューヨーク入りして、3番街64丁目のカールトン・タワーに住んでいた義父母のところに4泊世話になった。ブロードウェイのショーも「コーラス・ライン」「キャンディード」「ザ・ウィズ」を観て、帰国の前夜「シェナンドー」を観るべくアルヴィン劇場に行くと、ブロードウェイのミュージシャン・ユニオンのストライキで中止になったから、予約の変更をしてくれという。他を探そうにも、ミュージカルはすべて中止なので、払い戻しを受けてブロードウェイをぶらつくと、1軒だけ明るくて人だかりしている劇場があった。ユリス劇場 (現ガーシュイン劇場) で、ベイシー、フィッツジェラルド&シナトラ「ザ・コンサート」、そして"完売御礼"の張り紙。カウント・ベイシーの楽団員は、ブロードウェイのユニオンと無関係なので、ここだけは明るかったのだ。しかし、"引退"していたフランク・シナトラがカムバックして、ニューヨークでの最初のコンサートの、前売りで完売になっているチケットを突然入手出来るはずもなく、群がった人々は諦めて散ってゆく。それでもとにかく窓口に行くと、一人ならちょうど1枚だけあるという。ラッキー! と喜んだのもつかの間、ミュージカルのオーケストラ・シートが12ドル、15ドルの時代に40ドルだという。ウーン・・・あるかなあ。家には歩いて帰れるのでタクシー代は不用、アルヴィン劇場のチケットとメモ帳と小額紙幣だけ持って飛び出しているので、ポケットから全員集合でやっと39ドル。1ドルに泣くか、とその瞬間「39ドルでいいよ」と! 劇場でマケてもらったのは、後にも先にもこの時だけだ。
 さて、久しぶりに返り咲いたシナトラに、熱狂したファンの歓声と拍手が凄い。登場したシナトラのオープニング・ナンバーは「Where or When」、続いて「Bad, Bad Leroy Brown」「Let Me Try Again」「My Kind of Town」。満員の観衆は興奮気味で、禁じられているはずのカメラのフラッシュが、この日ばかりは無礼講だと言わんばかりにあちこちで光る。たまりかねたシナトラは「そんなに日本やドイツに奉仕しなさんな」とやんわり牽制していた。
 曲は「But Beautiful」「Didnユt We」「Nice ヤnユ Easy」「Just One of Those Things」「Pennies from Heaven」「Send in the Clowns」「Iユve Got You Under My Skin」等、10数曲をソロで歌った後、エラ・フィッツジェラルドを迎え、「The Song Is You」「They Canユt Take That Away from Me」の2曲をデュエット。それからエラのソロで「Come Rain or Come Shine」、シナトラのソロ「At Long Last Love」、再びデュエットによるラスト・ナンバー「Lady Is the Tramp」まで1時間10分程。やはりシナトラは健在だった。シナトラのライブ・コンサートを観るのは、1962年4月20日の日比谷公園野外音楽堂、21日の赤坂ミカド以来13年半ぶりだったが、素晴らしいショーを満喫できた。
 ブロードウェイ・ミュージシャン・ユニオンのストライキのおかげで、シナトラ復活の貴重なイベントに出会えたともいえる夜だった。

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