2005年11月 

<Now and Then>第2回
「SPレコード時代からLP創生期の思い出」・・・・・廣兼正明
 もの心がついた頃、戦前我が家には河村順子の童謡やディック・ミネの「上海ブルース」、渡辺はま子の「蘇州夜曲」、ダン道子の「兵隊さんよ有難う」、淡谷のり子の「別れのブルース」などのSPに混じってクラシックの10インチ1枚と12インチ2枚のSPレコードがあったのを思い出す。10インチはヴァイオリンのフーベルマンによるドルドラの「スーヴェニール(思い出)」とメンデルスゾーンの無言歌より「メイ・ブリーズ(五月の微風)」のカプリング、12インチはビクターから出たエルマンの「ツィゴイネルワイゼン」とテレフンケンのワインガルトナー指揮、J.シュトラウスのワルツ「千一夜物語」だった。これがクラシック音楽との邂逅である。
 何しろクラシックのレコードはこれだけだったし、父が中支(現在の中国の武漢、沙市方面)に出征してしまい、新しくレコードを買うことも出来ず、結局虎の子のこれら3枚のレコードしか聴けないわけで、以来この曲はこのような演奏でなければならない、と自分で決めつけるようになってしまった。

戦争が激しくなった昭和19年、国民学校5年生で山口県に妹と二人父の兄の所へ縁故疎開をしたりしてレコードどころではなく、音楽はハーモニカで軍歌を吹く程度となってしまった。翌年終戦となり、昭和24年旧制中学3年終了時に東京に戻ることが出来た。家財道具も田舎に疎開させていたので、ビクターの手巻き卓上蓄音機も無事に残り、レコードも少しずつ増え始めた。終戦後に初めて買ったのがハイフェッツが奏いたメンデルスゾーンの協奏曲(ビーチャムとロイヤル・フィル)の3枚セットのアルバムだった。テンポが恐ろしく早いこのレコードはビクターが新しく出したSDシリーズの最初のレコードだった。誰だか忘れたが、「この曲は女学生が最初に好きになる曲なんだ」と言ったのを未だに覚えている。爾来よく学校の女の子(我々は新制高校男女共学の第1期生だった)に「メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲はすごくいい曲だからラジオで一度聴いてご覧」などとメンデルスゾーンに代わってよく宣伝したものだった。

 さてそのころはサウンドボックス(今のピックアップの役目を果たすもので、その部分だけで確か250g位の重さがあった)で、レコードを痛めないようによく竹針(京都地方産の竹が適しているという)を使っていた。針の断面は三角形で竹針用に特別に作られたカッターを使って1、2面使う毎に切っていた。音も柔らかでボリューム・コントロールのない蓄音機(結構大きな音がしていた)も近所からのクレームが来ない程度に音が小さくなった。しかし聴く分には矢張り物足りないことは否めない。そこでたまには戸を締め切り、鋼鉄製の針で思う存分聴いたこともあった。しかし鋼鉄と言えども針はすぐに摩耗する。そこで少しは高いが1本で20面かけられる20回針があり、経済効率からこれを使うことが多かった。メーカーは多分ナポレオンだったと思うが、針の上半分が赤く着色されて直ぐにそれと判別出来るようになっていた。
 その頃ハイフェッツの「ツィゴイネルワイゼン」を聴いてそのテクニックの凄さに愕然とした。途端に以前から持っていた甘いエルマン流の演奏が頭の中で崩れ落ちたような気がした。その後映画でハイフェッツが出ている「彼等に音楽を(They shall have music)」を見て(=聴いて)サンサーンスの「序奏とロンド・カブリチォーソ」の演奏にダブルパンチを喰ってしまった。

 そして良い音で音楽を聴きたい欲望は日ごとに大きくなり、ついに自分で「電蓄」(電気蓄音機の略だが、当時は皆電蓄と言っていた)を作ろうと考えた。どうせ作るなら良いものにしたい、しかしこれに関しては全くの素人、だが幸いなことに高校の売店に入っていた青山の洋服屋さんの息子さんがラジオやアンプに詳しく、彼の知識を借りて遂に製作開始。良い音で聴くためにはという理念のもと、「2A3プッシュプル・ウィリアムソン」アンプにすることに決定。手始めに神田の露店(今は皆秋葉原に集結して神田に露店はない)で電蓄のケース、アルミのシャーシー、トランス、ペア・チューブの2A3真空管、そして真空管の取り付け穴を空けるリーマーをはじめ必要な部品や工具を少しずつ買い始めた。
先ず高周波部分(チューナー部分)からはじめ低周波部分(音に変換する部分)と進み、ケースに電蓄の象徴であるフライホイール、マジックアイの付いた「横行ダイヤル」を取り付けるのだが、専門誌「ラジオ技術」にあった配線図を見ながらの悪戦苦闘、ターンテーブルは値段と今後を考えてLPもかけられる「不二屋」のスリースピード、ピックアップは当初値段の問題でSP用「サミット」にした。そしてスピーカーは「ハーク」の9.5インチのみ、結構当時としてはもう一つの「フェランティ」と共に高級なスピーカーだった。
そしてようやく待ちに待った完成の日がやってきた。スイッチをON、最初に放送を聴く。緑色に光る「横行ダイヤル」をキュルキュル音とともに回して色々な電波を受けてみる。たまたまダイヤルをとめた所がNHKで、やっていたのが「NHKシンフォニーホール」、曲はベートーヴェンの「英雄」、第1楽章冒頭のEs-Durの4分音符のアコードが2つ、次の8分音符でのきざみの心地よさ、まさにこれこそが長い間憧れていた電蓄の音だった。

こうなってくると既に日本でも発売し始めたLPが欲しい。それにはピックアップを変えなければならない、だが高い。何とここで決断したのは、先ずLPを買おうということだった。既に当時コロムビアからは何十枚かのLPがカタログに載っていた。最初に買ったのはコステラネッツの「白鳥の湖」(WL-5006)と「胡桃割り人形」(WL-5023)。何故かって?これは「レコード芸術」で音が素晴らしいと書いてあったので買ったまでである。1枚2700円だから2枚で5400円。しかし聴くことが出来ないので仕方なく「床の間」に安置することにした。他の場所には勿体なくて置けなかった。
さあ、ピックアップ、ピックアップ、何が何でもピックアップと言うことで、何はともあれ聴きたい一心、電気文化音響製のクリスタルのLP、SP両用ターンオーバー式を清水の舞台を2度飛び降りて購入した。
ピックアップの取り付け完了後、取るものもとりあえず「床の間」から両手で持ってきた「白鳥の湖」にそっと針を落とす。次の瞬間我が電蓄から当時の最新録音の音の固まりがこっちに向かって飛び出してきた。この時のトランペットやピッコロの豊かな倍音を含んだ澄んだ音色にしばしの時を忘れて没頭した。この頃は日本における音楽すべてが第2の黎明期と言われる時期を迎えた時だった。

今は音楽も飽食の時代だが、当時の日本は完全に音楽に飢えていたときだった。入ってくる音楽すべてを貪るように聴いた時代だった。あの時の何を聴いても新鮮に感じた時代にもう一度戻りたいと思うのは歳を取ったせいだけなのだろうか。

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