2017年9月 

  

「風と波とロック」の凄さを見てるとその生と死の永遠を感じる。
・・・・・池野 徹
 海が好きだ。飽きもせずその彼方を見ている。気候変動の激しさに地球の将来が思われるが、愚かな人間たちは戦いをやめない。ロックのグルーヴィングの季節でもある。

 エルヴィス・プレスリーが生きているとしたら82歳になる。ロックンローラーの元祖ともいうべき歌手だが、エルヴィスがわずか42歳で逝ってしまった散り際に、妙に感慨を覚えたのだ。1973年。ハワイ公演を日本への初の宇宙生中継として送られて来た。日本人のファンを意識して日本のゴールデンタイムに合わせたものだった。当時、テレビの前で興奮気味に見たのが忘れられない。結局、日本には来なかったエルヴィスが、日本へ一番近づいた瞬間だったのだ。

 エルヴィスは、1956年に、「Heartbreak Hotel」「Love Me Tender」で大ブレーク、TVのエド・サリバンショーで82%の視聴率を獲得。キング・オブ・ロックンローラーの道をひた走る事になる。そしてパーカー大佐のプロデュースに乗り32本もの映画製作を行う。しかしその間、ビートルズやローリング・ストーンズの台頭により影が薄くなるが、1968年のNBC TVスペシャルでエルヴィス本来の革ジャンにリーゼントで登場し、エルヴィス健在なリを報せた。そこには、デビュー時のエルヴィスの魅力が甦っていた。「Elvis the Pelvis」(骨盤のエルヴィス)とか「悪魔の使徒」とかまで言われたあのエルヴィスのロックンローラーのカッコ良さが溢れていたのである。そして、エルヴィスは復活してラスヴェガスを中心にライブショーに突入して行く。死ぬ前の7年間で行ったライブは1000回以上、月に25回もあったという。オリジナルのバンドメンバーから、フルオーケストラへ、ロックから、ゴスペル、スタンダードとそのステージは拡大して行った。

 歌手は、メジャーデビュー以前は、何とか自分への認知度を求め、観客の中を突き進む、そこには、歌への歌う事への魂が込められている。その時代にその歌手の持ってるポテンシャルが全て出ているのは不思議だ。メジャーになり、カネを得る事で、億万長者になった時は、そこには、本来の歌手は存在しない。もちろん歌手の財産があるから、遜色無い様に見えるが、若き日の成り上がりの時代のその歌手の持ってるクオーリティには及ばないのだ。エルヴィスはその歌手の典型だ。最後には、観客にキスをして、ハグして、その汗を提供する。歌舞伎の役者のごとく見栄を切り観客におもねる。そこには、歌手自身も歌いたい、楽しみたい作品は、既に無く、観客に奪い取られているのだ。その結果は、どうなるか。己の肉体をすり減らし、緊張感のみのサイキック状態だけが残される。人間の弱みが露出され、その隙間に女が、ドラッグが入り込んでくるのだ。

 歌手というのは、肉体労働者だ。それが破滅へ知らずに蝕まれて行く。その結果は、「死」が突如としてやって来る。真近くは、ニルヴァーナのカート・コベインが27歳でサクラの4月に散った。ストーンズのブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ドアーズのジム・モリソンいずれも薬物で27歳の若き命を断った。理由はそれぞれ違うだろうが、短い間に頂点を極めた歌手たちは、肉体の限界に耐えられず逝ってしまったのだ。ロックの元祖エルヴィスも今生きていれば、82歳だ。しかし、若きロックンローラーの先駆者となってしまった。ビートルズも早く解散してジョン・レノンが射殺されとどめを刺された。我が愛すべきローリング・ストーンズが、ミック・ジャガーが、キース・リチャーズが、現在52周年を迎えてライブを始めてる事は、まさに希有な出来事だ。彼等の生き方の端くれを知ってるものとしては、ミラクルとしか言えない。その秘密をミック・ジャガーにインタビューして聞いてみたい。

 しかし、歌手にとっては、熱狂的ファンの有難さもあるが、その残酷さもある。それを受けた歌手たちは、肉体と精神を駆使しながら、己の歌手としての才能クオーリティを素直に晒して聞かせた、魅せた。売れないストリートロックンローラーの頃が、いちばん、魅力があり、カッコ良くもあったというのは、何と言う皮肉だろう。粗野で荒削りで傍若無人さが、でもロックの運命はそこにあると思う。「Heartbreak Hotel」が身に滲みる。

 美しく咲き、残酷に散って逝く。サクラの花にも似ているが、大海の風と波を目の前にするとすべてを無に帰する事ができそうだ。

(Photo & Art by Tohru IKENO)

「キス・ミー・ケイト」全国ツアー公演・・・・・本田悦久 (川上博)
☆コール・ポーター作詞・作曲のブロードウェイ・ミュージカル「キス・ミー・ケイト」が、7月1日の埼玉県サンシティー・ホールに始まり、8月13日の兵庫県立芸術文化センターまで、全国で29回上演された。
(筆者の観劇日は8月3日、東京芸術劇場プレイハウスでのマティネー)

 時は1948年の初夏、所はボルティモアの劇場。新しいショーの準備のために、役者や裏方さんたちが劇場に到着した。このショーは、シェイクスピアの「じゃじゃ馬ならし」をミュージカル化した新作。ニューヨークで1か月間稽古を積んで、ボルティモアで試演をやろうというわけだ。

 一座のボス、プロデューサーで脚本家、演出家、主演男優のフレッド・グラハム (松平健)は、抜擢したロイス (水夏希)に気があり、別れて1年の元妻で、主演女優リリー・ヴァネッシ (一路真輝)も気になる。ロイスの恋人ビル (平方元基) は、ギャンブルで大敗し、借用書にフレッドの名でサインする。やがて借金の取り立てにギャング (太川陽介・杉山英司)がやってくる。フレッドは冗談だと思い、とりあわない。

 フレッドから初日祝いの花束が届き、リリーは大喜び。ところがそれはロイスに宛てたもので、間違いだった。気づいたフレッドは慌て、リリーは上機嫌で舞台に向かう。いよいよ「序曲」が流れ、初日が開幕。舞台はイタリア、パデュアの街へ。

 裕福なパプティスタ家の姉娘カタリーナ (一路真輝) は、男嫌いなじゃじゃ馬娘。妹のビアンカ (水夏希)は、可憐で求婚者が鈴なりだが、妹を先に結婚させることが出来ず、父親バプティスタ (鈴木良一)は大弱り。ビアンカの求婚者ルーセンショー (平方元基) は、ヴェローナから嫁探しにやって来た友人のベトルーチオ (松平健) に偶然に再会し、バブティスタに紹介する。「金持ちなら何でも来い!」と、ベトルーチオは結婚を承諾、じゃじゃ馬馴らしに乗り出した。

 舞台は一見順調だが、舞台裏は大変。例の花束がロイス宛てだと、リリーにバレてしまて、リリーは激怒、「舞台を降りる」とフレッドに伝え、ホワイト・ハウスにいるフィアンセのハウエル将軍 (川崎麻世) に電話で「今すぐ迎えに来て」と頼み込む・・・。ここで主演女優リリーに降りられたら大変と、フレッドはギャンブルの借金の取り立てにきていたギャングに協力を頼む。つまりギャング達に舞台に上がってもらい、リリーを見張ってもらうという苦肉の策。ギャング達のにわか舞台に客席は笑いの渦・・・。

 何とか舞台が進んでいたが、ギャングの親分が死んでしまい、借金はチャラになり、ギャングの二人は去り、リリーもハウエル将軍と去って行く。残されたフレッドは、別れたリリーを深く愛していると改めて気づくが、時すでに遅し、それでも舞台は止める訳にいかず、最後のセリフ「キス・ミー・ケイト」と言うと、何とそこには貞淑なケイトの姿があった。別れた妻リリーと喧嘩しながら、舞台上でも夫とじゃじゃ馬娘という可笑しさに加え、ギャング二人の熱演に笑い、コール・ポーターの名曲の数々に酔いしれた。

 演出・振付: 上島雪夫、訳詞: なかにし礼、翻訳: 丹野郁弓。
 「ヴンダバー」「ソー・イン・ラヴ」「トム・ディック・オア・ハリー」「アイ・ヘイト・メン」「キス・ミー・ケイト」「ビアンカ」「トゥー・ダーン・ホット」「ブラッシュ・アップ・ユア・シェイクスピア」等のコール・ポーターのミュージカル・ナンバーは、いつ聴いても楽しい。

-------------------------------------------------------(舞台写真提供: 一般社団法人 映画演劇文化協会)

(余談)
筆者が初めて「キス・ミー・ケイト」を観劇したのは、1985年9月28日、新宿シアターアプル。演出は宮島春彦氏、出演者は立川光貴、賠償千恵子、岡崎友紀、笹野高史、瀬下和久、その他の皆さんだった。

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野良猫が特別出演した、ロンドン野外劇場の「キス・ミー・ケイト」
http://www.musicpenclub.com/talk-201609.html

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