2018年4月 

  

Classic CONCERT Review【室内楽】

日本モーツァルト協会 第596回例会(2月20日、東京文化会館小ホール)
 寺神戸 亮(てらかべりょう:ヴァイオリン)、迫間 野百合(はざま のゆり:ヴァイオリン)、原田 陽(はらだあきら:ヴィオラ)、懸田貴嗣(かけたたかし:チェロ)が出演。ガット弦が張られたオリジナル楽器を使用。弓は寺神戸がモダン、他の三人はバロック弓を使ったが、ヴィブラートは適宜かけていた。ガット弦による純粋で温かな音色を味わう。
 プログラムは「弦楽四重奏曲K.458《狩》」と「ディヴェルティメントK.563」。寺神戸のヴァイオリンはどこまでも艶やかで美しい。迫間、原田、懸田は寺神戸が示す大きな世界の中で自由に羽ばたいているように思えた。 「ディヴェルティメント」は迫間が抜けた三重奏。シンプルな作品に見えるが、40分以上の大作。奏者が三人であり、アンサンブルの精度が求められる。第4楽章変奏では、ヴィオラの原田が健闘した。第6楽章展開部は複雑だが、素晴らしい合奏を聴かせた。アンコールは「弦楽四重奏曲K.428」第3楽章(トリオなし)。
(長谷川京介)



写真:寺神戸 亮(c)Tadahiro Nagata

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

マルク・ミンコフスキ(指揮)レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル(2月26日、東京オペラシティコンサートホール)
 ミンコフスキのすごいところは、優秀な古楽オーケストラを使って、作品の構造が見通せる透明感と明晰な響きを創りながら、極めて現代的で新しい音楽を創り上げていることだ。オール・メンデルスゾーン・プログラムだが、現代オーケストラが演奏するとロマン性が強調され厚ぼったい響きとなるところを、全て吹き飛ばすような先端性を感じた。
 「フィンガルの洞窟」は海や逆巻く波を表す第2主題を弾くチェロの響きと、クラリネットのソロがもぎたての果物のように新鮮。
 交響曲第4番「イタリア」の第2楽章では、チェロが刻む心地よい響きに乗って歌うフルートとオーボエがきれいに浮かび上がってくる。第3楽章のナチュラル・ホルンの重奏は何とも言えない味わいがある。速いテンポで進む第4楽章のタランテラのリズムに乗って現れる高速の弦の切れ味には快感すら覚えた。
 後半は交響曲第3番「スコットランド」だが、演奏前にミンコフスキは聴衆に向かって『この演奏を最近亡くなったジヤズ・ヴァイオリニスト、ディディエ・ロックウッドに捧げたい。』と語りかけた。
 「スコットランド」は正直いまひとつだったのは残念。もちろん素晴らしい演奏ではあるのだが、前半ほどの集中力と輝き、緻密さが感じられなかった。それでも、第1楽章序奏の美しさや、第2楽章の激しい弦のスタッカート、第3楽章の荘厳な第2主題、第4楽章コーダの壮大な演奏など、充分満足できるものがあった。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【器楽曲・ピアノ】

長谷川ゆき ピアノ・リサイタル〜管弦楽・オペラ作品とともに (3月1日、紀尾井町サロンホール)
 長谷川ゆきの活動範囲は多岐にわたる。ピアノから始め、2011年から指揮も開始した。今日はひさしぶりというピアノ・リサイタル。結論から言うと、かなりの腕前を持つピアニストだ。特に、左手のバスの動きが素晴らしい。骨格のがっちりとしたスケールの大きな音楽を創る。長谷川は譜面を立体的に読み込むことを目指しており、音楽に厚みと色彩感を与えている。
 ワーグナー=リスト編『イゾルデの愛の死』」は、和声をしっかり響かせた。
 ロッシーニ「歌劇《セビリャの理髪師》」より「嵐の音楽」は、長谷川が編曲。生き生きとした躍動感があった。ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」も長谷川編曲版。ボルヴィック版とは異なり、和声を前面に押し出す斬新さがある。
 ブラームス「4つの小品」は、タッチが強いため微妙さ繊細さを充分伝えられなかったのではないだろうか。ただ第4曲「ラプソディ」は、圧倒的な演奏を聴かせた。
 この日最高の出来は、ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第31番」。安定した低音が素晴らしい。第1楽章から深い世界に入る。第3楽章「嘆きの歌」の再現ではベートーヴェンの絶望の深さが伝わってくる。それを断ち切るような3つの和音には渾身の力が込められていた。勝利するかのように盛り上がるコーダが長谷川にとって難所だったのではないだろうか。わずかなほころびがあったのが惜しかった。実力のあるピアニストであり、機会があれば指揮も聴いてみたい。
(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【ミュージカル】

パーヴォ・ヤルヴィ&N響「ウエスト・サイド・ストーリー」(演奏会形式)〜シンフォニー・コンサート版(3月6日、オーチャードホール)
 海外からの歌手陣が素晴らしい。キャラクターを知り抜いた表現力と表情が豊かで、装置もなく、踊りもほとんど見られない演奏会形式にもかかわらず、ぐいぐいとドラマに引き寄せられていく。PAを使用、多少音が大きく感じることもあったが、許容範囲内。
 ヤルヴィ&N響にとって、ジャズのスイングの裏打ち、マンボやチャチャチャ、ブルースの中抜き、「アメリカ」におけるヘミオラ(混合リズム)などは、クラシックと異なり演奏しづらかったのではないだろうか。どこかノリが良くない。ただ演奏自体はゴージャスで、テンポの速い部分や静謐な箇所はヤルヴィ&N響ならでの演奏が展開されていた。
 歌手は、マリアのジュリア・ブロックと、トニーのライアン・シルヴァーマンが主役にふさわしい歌唱と表情。二人の「トゥナイト」は感動的。歌唱の深さでは、アニタのアマンダ・リン・ボトムスが一番だった。威厳さえ感じさせる存在感は出色。リフのティモシー・マクデヴィットも切れ味があった。アクションのザカリー・ジェイムズも、「ジー、オフィサー・クラブキ(まあ、クラブキ巡査)」でいい味を出した。
 「ウエスト・サイド・ストーリー」の中でもきっての名曲と言っていい「サムホエア」は、映画のようにトニーとマリアが歌うのではなく、ブロードウェイ版は二人が夢見る敵味方のないダンスシーンで、A-ガールの声として舞台裏から聞こえてくる。アビゲイル・サントス・ヴィラロボスの歌唱は清らかだった。国内からの歌手陣、コーラスは、健闘していたが、外観や体格、歌唱力と表現力で、大きな差を感じた。(長谷川京介)

Classic CONCERT Review【オーケストラ】

バッティストーニ 東京フィル ベートーヴェン「交響曲第5番&第7番」(3月10日、京葉銀行文化プラザ)
 719名収容の音響の良い中ホールで、バッティストーニのベートーヴェンが聴けるとあって、チケットは早くに完売。期待通り、熱く爆発的な演奏だった。編成は12型、コントラバスは5台。ホールに音が充満する。
 第5番「運命の動機」のフェルマータは短く切られる。演奏時間は32分前後。ヴィブラートはふつうにかけていた。全曲エネルギーが噴出する熱演だが、細かく各声部をコントロールする。第2楽章はテンポを落とし良く歌わせるところが、イタリアの指揮者らしい。第4楽章コーダの激しい主和音が連続する部分で休符を縮めたのはユニークな解釈。4分休符+2分休符を4分休符のみの長さにして切迫感を出した。
 交響曲第7番は34分前後。快速テンポだが、第1楽章序奏はゆったりと歌わせた。第1楽章再現部309小節からのオーボエとフルートもゆったり歌わせる。第2楽章も、第5番と同じく歌うことを優先。内声部の第2ヴァイオリンを生かし重層感を与える。第3楽章スケルツォはトリオのホルンがユーモラス。数秒の間を置いて第4楽章に入って行ったが、予想以上の爆発的エネルギーと推進力に圧倒された。バッティストーニは、一見興奮し我を忘れているように見えても軸はぶれない。激しいがオーソドックスなベートーヴェンだ。アンコールはチャイコフスキー「弦楽セレナーデ」から「ワルツ」。ダンスが身体に染み込んでいるヨーロッパ人でなければ出せないセンスは見事だった。(長谷川京介)

写真:バッティストーニ(c)上野隆文

Classic CONCERT Review【オーケストラ・協奏曲(ヴァイオリン)】


謙=デイヴィッド・マズア 読響 アラベラ・美歩・シュタインバッハー(3月10日、東京芸術劇場コンサートホール)
 名前からわかるように、二人とも日本人の母とドイツ人の父を持つ。謙=デイヴィッド・マズアの父は2015年に亡くなった名指揮者クルト・マズアだ。
 ウェーバー「歌劇《オイリアンテ》序曲」は細身でかなり長身のマズアの雰囲気そのままの軽快で颯爽とした演奏だった。
 アラベラ・美歩・シュタインバッハーは、まるで春の女神が地上に舞い降りてきたように明るい色のドレスで登場した。メンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲」は、春の息吹のように温かく優雅で一斉に花が咲き開くように華やかな演奏だった。 第1楽章第2主題は、ひとつひとつの音に夢見る思いが込められているよう。カデンツァも艶やかで美しく繊細。第2楽章はメンデルスゾーンの甘美な音楽を心ゆくまで味合わせてくれた。第3楽章は蝶が舞うように軽やかで優雅。マズアの切れ味のいい指揮もシュタインバッハーをよくサポートした。
 マズア指揮のシューマン「交響曲第3番《ライン》」は、明るく見通しのよい演奏であり、細部まで神経が行き届いている。読響の重厚な低弦や、華やかな金管を生かしている部分もあるが、全体としてはあっさりとしており、個人的にはもう少し分厚い響きを聴きたいところだ。(長谷川京介)

写真:謙=デイヴィッド・マズア(c)Beth Ross-Buckley
アラベラ・美歩・シュタインバッハー(c)Peter Rigaud

Classic CONCERT Review【オーケストラ・協奏曲(ヴァイオリン)】

ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン ニューヨーク・フィルハーモニック 五嶋 龍(ヴァイオリン)(3月14日、サントリーホール)
 メンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲」を弾いた五嶋 龍の演奏は単調。表現の幅が限られている。技術はあるが、訴えてくるものが少なく、胸に響かない。世界の一流オーケストラと互角に対峙するためのインパクトは感じられなかった。ただ、第1楽章コーダと第3楽章は、躍動感があった。この躍動感と若さをもっと強く主張してもいいのでは。 
 マーラー「交響曲第5番」は、まるでスーパー・カーに乗せられているようだった。これほど機能的で磨き抜かれたオーケストラを聴くのは、初めてかもしれない。しかし、私は一体何を聴いたのだろうか。パワーと技術に圧倒されたことは間違いないが、ひたすら巨大で輝かしい「音響」を聴いていた気がする。マーラーはどこにいたのだろう?
 個々のプレイヤーには最大限の称賛を送りたい。あれほど輝かしく豪華なトランペットを聴いたことはない。ホルン、トロンボーンの首席も素晴らしかった。木管も生命力がある。弦は強靭で、爽やかだ。
 ズヴェーデンの統率力とオーケストラ・コントロールは見事。ニューヨーク・フィルも新しいシェフを迎え、意気が上がっていることを感じさせた。アンコールのワーグナー「ローエングリン」第3幕への前奏曲は、まばゆいばかりの金管と豪華な弦に彩られていた。両者はこの先どういう音楽を追及していくのか。「音響」の先にあるものが、私にはまだ見えない。(長谷川京介)

写真:ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン(c)Bert Hulselmans

Classic CONCERT Review【現代音楽】

タン・ドゥン 新日本フィル オーガニック3部作(3月17日、サントリーホール)
 タン・ドゥンの「オーガニック・ミュージック・シリーズ」3部作が、自身の指揮で披露された。《大地の協奏曲》は日本初演。彼の作品はパフォーマンス的要素も多く、現場で見て聴いて感じないと、すべてを味わえないのではないだろうか。
 「《水の協奏曲》〜ウォーター・パーカッションとオーケストラのための〜武満徹の追憶に〜」は、水を張ったアクリルのボウルが2つと円筒形の容器がステージに置かれる。第2楽章最後にカデンツァがあり、ソリストのベイベイ・ワンは水を手で叩き、ボウルに浮かべた木製のお椀をマレットで叩く。これは見もの聴きものだった。中国的音階はタン・ドゥンの原点を感じさせる。オスティナートの多用や突然の休止は、オーガニック3部作に共通する。
 「《紙の協奏曲》〜ペーパー・パーカッションとオーケストラのための〜」は、ステージ上に3枚の大きな紙がつるされ、それを藤井はるかと柴原誠、腰野真那が叩く。紙を笛のように鳴らしたり、割いたり、あるいは神主が使う大幣(おおぬさ)に似たものを振ったり、この作品もパフォーマンス的要素が多い。第4楽章では2階7か所に2人ずつ配置された第1ヴァイオリン奏者とともに、熱狂的な祭りの音楽が展開された。
 「《大地の協奏曲》〜アース・インストゥルメンツとオーケストラのための〜━グスタフ・マーラー《大地の歌》に敬意を表して」は、副題にあるようにマーラー《大地の歌》に構成を模す。ステージ上にはさまざまな形をしたセラミック(陶磁器)が多数置かれ、これまで出演した奏者全員がマレットや手で叩き、ジャン・モウがセラミック・バス・ホルンを吹く。またマリンバなどの打楽器も3台置かれる。2階に配置された第1ヴァイオリン奏者もそのまま参加した。ジャン・モウの音は大地が胎動するようで、アボリジニのディジュリドゥを思い起こさせる。第3楽章で、マーラー《大地の歌》の一部が引用されるが、タン・ドゥンの作品と違和感なく溶け込む。今回3曲まとめて聴いたが、第1作の《水の協奏曲》が最初の作品でもあり、一歩抜きんでていると感じた。(長谷川京介)

写真:タン・ドゥン(c)Feng Hai

Classic CONCERT Review

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第314回定期演奏会
~バーンスタイン生誕100周年記念プログラム~
指揮:高関健
キャンディード序曲
セレナーデ(プラトンの饗宴による)(ヴァイオリン独奏:渡辺玲子)
「ウエスト・サイド物語」よりシンフォニック・ダンス
ディヴェルティメント(3月17日 東京オペラシティコンサートホール)
 バーンスタインは吹奏楽をやっている中高生などに非常に人気がある。当日の会場にもそのような子たちがいた。彼らが吹奏楽バージョンの「キャンディード序曲」や「シンフォニック・ダンス」をよく聞き知っているとすると、弦が入った重厚な響きをどう感じただろう。吹奏楽の音質とは違う、また映画やDVDで鑑賞するのとは違う音の多彩さ、深みや広がりに気づいてくれただろうか。きっと、圧倒されたと思う。彼らがこれをきっかけにコンサートホールへより多く足を運んでくれることを祈りたい。
 さて、一聴衆として、筆者が一番面白かったのは「セレナ—デ」だ。ヴァイオリン独奏に対してオケはけっして伴奏ではない。5つの楽章はいずれも標題音楽的であるから、内容が分かりやすい。ヴァイオリン(渡辺)からはまず甘い音が聴こえてきた。本当に甘い香りがするような食感すら感じさせる演奏で、引き込まれた。その後は古代ギリシャを彷彿とさせる繊細で不可思議な音も素晴らしかった(1736年製のグァルネリ)。そして、オケとの対話に気を使っているというのが、演奏の様子からも見えた。もちろん、これを支えていたのは高関の協演者としての指揮の力だ。
 高関はプレトークで、バーンスタインの練習風景のエピソード(怒って楽譜を叩きつけた)などを話してくれた。このような雰囲気を作ってくれるとオケと聴衆の距離がぐっと近くなる。とてもいい試みだと思う。休憩の時に再び登場すると、聴衆に曲中「マンボ!」と叫んでくれと言って練習をさせた。聴衆の声がこの練習より本番の方がよく合っていたのには驚いた。楽しかった。このマンボがもっとも印象に残った曲だと思う。大オーケストラによる音の爆発と洪水は圧巻だった。躍動感が心の中に残った。アンコールで「ディヴェルティメント」の最後の行進曲を再度演奏してくれた。直後に同じ曲を聴くのもこれまた面白い。二人のピッコロのビフォー・アフターだけでも聴衆は違いがよく分かり、大いに満足したことだと思う。
(石多正男)

Classic CONCERT Review

群馬交響楽団東京公演
指揮:大友直人
エルガー:序曲「コケイン」〜ロンドンの下町で
ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調(ピアノ独奏 小川典子)
ヴォーン・ウィリアムス:交響曲第2番「ロンドン交響曲」
(3月18日 すみだトリフォニーホール)
 全曲を通してもっとも強く感じたことはオケ全体の統一だ。各管楽器は一つの有機体としてのオケの中にありつつ、ソロとして聴衆を魅了した。打楽器も自己主張を前面に出すことなく、あくまでオケの中で存在感を示していた。弦も非常にすっきりした音で、これらが統合され、これぞオーケストラ!とすがすがしい気持ちにさせられた。小川典子のラヴェルは生き生きと力強く、非常に説得力があった。躍動感、遊び心があふれ、アメリカ的ジャズ的な要素を十分に楽しませてくれた。第2楽章はピアノの長いモノローグだが、コール・アングレとのアンサンブルも心地よく、この音の絵巻がいつまでも続いてほしいと思うほどのものだった。
 最後のヴォーン・ウィリアムスでは、まず大友にこの作曲家の素晴らしさを教えてくれたことを感謝したい。近年、藤岡幸夫など他の指揮者もヴォーン・ウィリアムスを取り上げるようになり、秀演に接する機会が増えた。さまざまな演奏を聴けるのだが、この日の大友は非常に洗練され、品格漂うイギリス紳士的な演奏を聴かせてくれた。なんといってもpppの説得力が出色だった。第2楽章や終楽章の最後、弦が次第に消えていく音の美しさ。極度の緊張が強いられる中に、無上の幸せを感じさせられた一瞬だった。管楽器のソロの他、ヴァイオリン、チェロ、そして特にヴィオラのソロも静寂の中に神秘的な美しさを湛え、聴衆の心を捕らえて放さなかった。この交響曲はけっしてベートーヴェン的なクレッシェンドによる凱歌ではない。終楽章に向かって全曲が構成されているのではなく、随所に異国趣味的な(スコットランド的、日本的)な旋律が使われ、それぞれを楽しめるように書かれている。そういったこの交響曲の本質を聴かせてくれた好印象を残す演奏だった。(石多正男)